ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

投函されなかった「たすけて」という訴えの手紙と、その叫びを聞かれる神

 朝日の連載「孤独の国」の第四回目は、「たすけて」を言い出せぬまま餓死した男性の事をルポしていました。昨年12月29日の記事です。
 対象者は昨年4月北九州市で起きた39歳の男性餓死者でした。高校時代はラグビーもやったという、かつては筋肉隆々の人だったのではないかと思います。
 発見された家はトタン張りの平屋でした。電気が止められた為、夜は真っ暗だったでしょう。近所の給油所からの明かりがかろうじて差し込むだけの侘しさです。

 この男性生まれ育ったところからさぞ遠い場所で亡くなったのかと言いますと、そうではありませんでした。僅か数百メートルの所に育った家があり、最初祖父母、両親、兄との6人暮らしだったそうです。それが祖父母の死亡、兄は大学進学の為家を出て、父親も借金で家から離れてしまいました。結局母親との2人暮らしが続き、この母親も男性の死から5年前に亡くなったそうで、以来ずっと一人暮らしが続いていました。でも全くの孤独ではなく、層遠くない駅のマンションに母方の叔父が住んでいました。
 この男性は「たすけて」という訴えの手紙を書きながらも、遂に投函せず部屋に残されていました。その宛先が叔父だったわけです。しかし叔父は甥の「放蕩な」生き方に警戒し、母親が亡くなってから全く援助をしていませんでした。叔父は甥の餓死に対して全く冷たく「自己責任」だと言い切っています。
 甥の放蕩さ加減に見切りをつけた叔父の気持ちは分かりますが、たとえ資金援助でなくても、生活保護の為積極的に動くとか何かの方法はあったのではないかと思います。もし叔父に深い愛があったら、男性は「たすけて」という手紙を投函していたのではないかと思います。
 聖書には有名な放蕩息子の譬えがあります。ルカ15:11−32です。この息子も自分の家を出てから生前贈与のお金を使い果たし、最後には「飢え死に」しそうになっていました。しかし彼には頼るべき父親がいました。この父親こそ愛と憐れみに溢れる主なる神の雛形です。もしこの方に信頼して委ねるなら、苦境に陥って助けを求めた時、必ず救い出して下さいます。
 彼即ち神は「助けを叫び求める貧しい者や、助ける人のない悩む者を救い出すからです」(詩72:12)。
 放蕩息子は今や父親の家にあって安全です。
 しかしここにも上記餓死者の叔父のような人が登場します。それは放蕩息子の兄です。
 「遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか」(ルカ15:30)。
 しかし自分を頼り、助けを求めて帰還した息子の為に、父親は息子の兄をいなしてこう言いました。
 「おまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか」(同15:32)。
 この霊的に死んだ者を新生させ、生ける希望を持たせて下さるのが聖書の神です。