ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

難波江和英・内田樹共著『現代思想のパフォーマンス』から考えた事

 上記の本はソシュール、バルト、フーコーラカン、サイードといった現代の錚錚たる思想家たちを取り上げて、二人の著者が論じています。
 そのうちサイードの本は比較的分かりやすく数冊読みましたが、後は難しくて放棄しました。特にソシュールなどはいまだによく分かりません。
 聖書でパウロは「あのむなしい、だましごとの哲学によってだれのとりこにもならぬよう、注意しなさい。そのようなものは、人の言い伝えによるものであり、この世に属する幼稚な教えによるものであって、キリストに基づくものではありません」(コロサイ2:8)と言いました。この箇所だけに哲学(ギリシャ語フィロソフィア)という言葉が出て来ます。上記著者たちが「哲学者」であるかどうかはとにかく、主キリストのみことばに対して、世の哲学は「幼稚な教え」と書かれています。ギリシャ語ストイヘイオンは、技術や科学の初歩的な、初級の、基礎的な原理などという説明があり、必ずしも「幼稚」といった語感ではありません。上記の人々が「幼稚な教え」をしていない事はすぐ分かりますが、聖書ではあえてそうした難しい思想のとりこにならないよう警告していると思います。
 確かに解説であっても難解で、途中で諦めましたが、一つだけ頭に残った表現があります。ソシュールですが、解説者は「語の意味と価値を区別しておかなければ、わたしたちはまた、コトバはモノを名づけるための道具に過ぎないと考えて、言語名称目録観の発送に逆戻り可能性があるというのである」と言っています。
 この言語名称目録という言葉さえ難しいですが、一つピンと来たのは、創世2:19−20のみことばです。「神である主が、土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造られたとき、それにどんな名を彼がつけるかを見るために、人のところに連れて来られた。人が、生き物につける名は、みな、それが、その名となった。こうして人は、すべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名をつけたが、人にはふさわしい助け手が、見あたらなかった」。
 ここで彼とはアダムの事ですが、彼は主なる神が創造された生き物の全てに名前をつけたのです。それぞれをきちんと区別しながら。彼はこの時「コトバはモノを名づけるための道具」として意識していたと思います。
 しかし神はアダムのやり方を見てはおられましたが、一つの言葉に様々な意味を持たせられました。例えば「豚」ですが、命名者はアダムであっても、聖書の分類学では「ひづめが分かれており、ひづめが完全に割れたものであるが、反芻しないので、あなたがたには汚れたものである」とあり、一般に汚れたものの象徴となりました。ですから「聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりません。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂くでしょうから」(マタイ7:8)というみことばでは、聖なる神の真珠のようなみことばを「豚」の前に投じる事を禁じています。勿論それはみことばに反逆し、そのすばらしい価値を認めない「背反のやから」という意味で使われています。、また「美しいが、たしなみのない女は、金の輪が豚の鼻にあるようだ」(箴言11:22)ともあります。この場合の豚はたしなみのない女という意味合いで使用されています。
 実際聖書解釈の難しさは言葉が字義的であるか、譬えをもって語られているのかという点にもあります。
 主なる神が一つの言葉に多様で豊かな意味を与えられたからです。それは虚心に主のみことばに耳を傾ける者だけが理解出来るようにというご配慮があっての事でした。ひらめきで(聖霊の導きで)主のみこころを悟った時、それは大きな喜びであり、また力となります。