ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

合田一道『幕末維新・群像の死に際』より水戸天狗党の処分の仕方を考える

 水戸天狗党は1864年に筑波山で挙兵しました。水戸藩尊攘派として良く知られています。その首領が武田耕雲斎です。
 党の千人ほどの武士たちが茨城の大子町で集結し、上洛して一橋慶喜を通し朝廷に尊皇攘夷の志を訴えるべく、中山道を進んで行きました。
 しかし幕府は天狗党を暴徒とみなし、一橋慶喜自らが討伐軍に加わった為、彼らは最終的に諦め、金沢藩の地で投降したのでした。その時彼らの数は823人だったそうです。
 捕らえた加賀藩は寛大な扱いをしたのですが、幕府軍田沼意尊らが強硬な態度に出て、投稿した者たちを鰊倉(=にしんぐら)に無理やり押し込めました。このあたりの描写は吉村明著『天狗騒乱』に詳しく、一気に読んだ事があります。
 彼らはこの倉の中で非常に苦しんだ挙句、処分を待っていました。幕府は彼らの大量処分を決めましたが、何しろ数が多いので、合田氏の記述によると、取調べが次第に荒っぽくなりました。処刑かそうでないかは「そなたは合戦をしたか」という問いに対する返答で決まりました。「はい」と答えた者は斬首、「いいえ」と答えた者は流罪等に処せられました。結局353人が処刑と決まり、次々に首を刎ねられました。
 この記述を見て思いだしたのが、聖書の士師記の記事です。
 ギルアデ人エフタはイスラエルを6年間裁いた士師でした。彼はギルアデの人々と共にエフライムと戦いました。そしてエフライムに面するヨルダン川の渡し場を攻め取り、エフライムの逃亡者が来るかどうか見張っていました。
 エフライムの逃亡者たちはそこに来て、「あなたはエフライム人か」と尋ねられましたが、当然彼らは否定しました。
 そこでギルアデ人らは知恵を絞り、ヨルダン川の前だったので、シボレテ=川、流れという言葉が浮かびました。エフライム人の方言ではそれをスィボレテと発音していたのです。そこでギルアデ人らは、エフライムの逃亡者と思われる者たちに片っ端から「シボレテ」と言わせてみました。
 しかしエフライム人はその発音が出来ず、ただちに捕らえられました。そしてその渡し場で殺したのです。その数は非常に多く、実に42,000人が処刑されたのでした。
 <その者に、「『シボレテ』と言え。」と言い、その者が「スィボレテ」と言って、正しく発音できないと、その者をつかまえて、ヨルダン川の渡し場で殺した。そのとき、四万二千人のエフライム人が倒れた。>(士師12:6)。
 天狗党の処刑者数とは二桁も違いますが、これまた凄惨な場面だったでしょう。罪深い人間の為すわざです。