ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

アルフォンス・デーケン著『死とどう向き合うか』を読み改めて思う事

 アルフォンス・デーケン氏はドイツ生まれ、1959年に日本に来て上智大学で長らく死生学の講義を続け、現在はその大学の名誉教授となっています。
 カトリックイエズス会司祭という点では若干異なるものの、上記の死生学集大成としての書は、信徒・未信徒の如何を問わず共有出来るものです。
 氏は死への準備教育や生と死を考える会の提唱、そして全国でのホスピス建設支援などを積極的に行なっています。その真摯な死生観に共鳴する人々の数は多いと思います。
 私も所属する教会を拠点に「生と死を考える会」を立ち上げてみました。大切な場でありながら、支援と宣伝不足で、まだ本格的活動に至っていません。
 それはとにかく、愛する人の死に出会い、その喪失体験と悲嘆のプロセスについて、デーケン氏は12段階のモデルを提唱をした事でも良く知られています。先に米国のキューブラー・ロス博士は、死に直面した人の場合、1否認2怒り3取引4抑うつ5受容という大まかな5つの段階を提唱しました。
 それに対するデーケン氏の12段階とは、1精神的打撃と麻痺状態2否認3パニック4怒りと不当感5敵意と恨み6罪意識7空想形成・幻想8孤独感と抑うつ9精神的混乱と無関心10あきらめー受容11新しい希望12立ち直りの段階であると、本書に書かれています。
 実際上記の悲嘆のプロセス、経験した人なら自分が今どの段階にいるのか、或る程度は分かるでしょう。
 とりわけ「罪」という事を日頃聖書から学んでいると、6の罪意識など強く感じるのではないでしょうか。
 デーケン氏はそのくだりでこう言っています。
 「…過去の行いを悔やみ自分を責めます。あの人が生きているうちに、もっとこうしてあげればよかったとか、逆にあの時あんなことをしなければ、まだずっと元気でいたかもしれないなどと考えて、後悔の念にさいなまれます」。
 私は母をほぼ8年前に天国に送りましたが、87歳での老人性鬱病発症、89歳で亡くなるまでの間をつらつら考えると、まさにこの罪意識の段階がその後とは無関係に続いているような気がします。
 よかれと思った事が実際には母にとって苦痛でしかなかったと思われる事、歩行に注意していながら、転倒してしまった時、気遣いより「なぜ気をつけなかった!」などと大声で叱責してしまった事、血圧が下がって来ているのに傍にいて手を握ってあげる事より、パソコンであせりながら葬儀の式次第などを書いていた為、ほとんど今わの際に間に合わなかった事、奇異な行為に怒ってばかりで泣かせてしまった事など、挙げればキリがありません。
 ですから生前の母の事を思うたびに、「あ母さんごめんね。許して。自分も早く点へ召されるよう執り成してね」などとつぶやいてしまうのです。そして天を仰いだ時、トボトボと道を歩いている時、突然底知らぬ寂寥感に襲われてたまらなくなります。
 そうした時近未来に成就する次の聖句が私をかろうじて支えてくれます。
 「また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである」(黙示21:1−4)。