ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

八百長相撲と聖書における競技者のルール

 昔テレビがあった頃NHKでよく相撲番組を見ていましたが、力士同士の戦いは全力を尽くし、反則などないものと信じていました。
 最近はテレビもないし、久しく観戦した事がなかったので、2月3日の新聞を見て、そこに八百長があったという疑惑で13力士のうち12人が事情聴取を受けた事を知り、ヘエーと思いました。しかし夕刊を見ますと、暴力団関係者の取材でそれは「常識」だとあったので、納得しました。実際3人の現役力士がその事実を認めていました。
 ところで朝日の朝刊では報道と共に、改めて「スポーツ」とは何ぞやという問いかけをしていました。それによりますと、「人々はスポーツに何を求めているのか。フェアネス(公正性)を根源に置いた感動だ。アスリート(選手)がフェアに戦い、全力を尽くして勝敗を競うからこそ、見る者の心は動く…もし、そこに八百長がからんでいるとすれば、それはスポーツとは呼ばない。ただの興業であり、ショーである」と書かれていました。
 その通りですが、暴力団が絡んでいる以上根絶は極めて難しいでしょう。
 聖書ではどんな事が言われているでしょうか。
 パウロは若い伝道者であり牧会者であったテモテに対してこう書いています。
 「また、競技をするときも、規定に従って競技をしなければ栄冠を得ることはできません」(テモテ第二2:4)。
 ここで「規定に従って」とあるのは、「律法(イエス・キリストの教え)に合致する形で」という事です。信徒は神であるキリストのみことばと御心をすべての基準として日夜奉仕しています。それによってこの世のいのちを全うし、天国で栄光の冠を受けるのです。相撲の力士たちが正しいルールに従って競技を行い、千秋楽に賜杯を受けるのと同じです。
 同じようなみことばがコリント第一9:24−25にあります。
 「競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです」。
 相撲の賜杯は勿論一人の優勝者に対して与えられます。しかしパウロはここであえて朽ちない栄光の冠を受ける者は「ただひとり」とは言っていません。確かに各教会は競って救い主イエス・キリストの福音を伝えているように見えます。でも福音伝道の「競技」「競争」は世の基準とは異なっています。弱肉強食、適者生存といったダーウイン主義に則ってはいません。誰もが頑張って奉仕をルールに忠実に行なえば、天国では皆同じ冠を頂けます。
 また信徒たちは「あらゆることについて自制します」。これが大切です。上記の疑わしき力士たちはそれが出来ず、暴力団との金まみれの付き合いをして失敗し、賜杯にまで及びませんでした。しかし忠実な信徒なら世のあらゆる快楽や誘惑を断ち切って、ひたすら信仰の戦いをします。そして救い主から栄冠を頂きます。