ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

宮台真司著『日本の難点』を読んで

 宮台真司氏は気鋭の社会学者です。以前初期の書物を読んだ事がありますが、最近2009年に出版された『日本の難点』は多少とも話題になったもので、図書館にて借りて読みました。
 読後感としては非常に読みにくかったです。宮台氏が「衒学的」だからでしょう。なぜかと言いますと、随所にカタカナ語が登場し、その意味が分かりづらいのに、当然知っているはずだとして、やさしい日本語に言い換えていない事、そして「〜が言うように」と、私たちが日常馴染みのない人の名前をひんぱんに出して来て、該博な知識をひらけかしているからです。
 それで私は斜め読みをして読了しました。たぶん普通の人には理解出来ず、「分かりやすく」という新書の狙いは外れ、遠からず消え去るでしょう。
 そうした中で気になる論点がありました。第二章冒頭の「『いじめ』は本当に決してなくせないのか」という題の下で展開されている箇所です。
 宮台氏はこう言っています。「『いじめ』とは、人の『自由』な日常的活動のベースになっている『尊厳』…を、回復不可能までに傷つけることで、以前と同じ生活を送れないようにしてしまうことです。『尊厳』を破壊することで『自由』を奪う営みこそが、『いじめ』の正確な定義です』と。
 これは正しいでしょう。現在陰湿で深刻ないじめにより、自殺まで追い込まれたり、引きこもりを余儀なくされている人が多くいるからです。
 しかし宮台氏は次にこう定義されたいじめは、完全になくすことは現実的に無理でも、相当ていどなくすことができる、殆んどなくすことができると。
 なぜなら「ダメなものはダメ」と本気に言える利他的な先輩たちがいて、いじめている人たちに「感染」させ、いじめを止めさせることが出来るからという事のようです。
 でもそうした利他的な人々が多くいるのでしょうか。聖書の教えはそれを否定しています。
 まず聖書でも旧約のはじめから「いじめ」は存在しています。人間堕落後すぐです。一例は以下の通り。
 ヨブ19:3「もう、十度もあなたがたは私に恥ずかしい思いをさせ、恥知らずにも私をいじめる」。
 ここでヘブル語ハーハル(=不当に取り扱う、ひどく当たる)はここだけに出て来ますが、苦しんでいるヨブをさらに追い込んでいる彼の「友人」たちのいじめがあります。
 そして堕落した人間は誰でもその心にいじめという悪い気持ちを抱いているのです。
 マタイ15:19「悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりは心から出て来る…」。
 詩14:3「彼らはみな、離れて行き、だれもかれも腐り果てている。善を行なう者はいない。ひとりもいない」。
 ですから宮台氏が本気で体を張ってダメなものはダメといえる人は皆無に近く、従っていじめは殆んどなくなりません。
 ただ聖書の救い主イエス・キリストによって変えられ、新生した人のみ利他的になり、多少の人々をいじめから解放するだけです。そして終末が来てキリストがご賜杯される時。全てのいじめが完全になくなります。