ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

妻に先立たれたある信徒の証

 2011年2月7日の夕刊には両親が牧師で、写真家兼ジャーナリストの桃井和馬さんが登場し、最愛の妻を亡くしその間味わった苦悩について、記者のインタヴューを受けていました。
 桃井さん自身17才の時「洗礼」(*バプテストの場合は浸礼と言います。これが漢字からしても、ギリシャからしても正しい)を受けています。
 最愛の人に先立たれた後の喪失感は、経験した人でない限り、なかなか分からないので、安易な慰めは通用しません。病気で苦しんでいる人の苦悩の中身でも、それを共有するのが難しい事は、旧約聖書のヨブの場合で良く分かります。全身悪性の腫物で打たれたヨブを気遣ってやって来た3人の友人たちも、最初は言葉を失ってその苦難を共有していましたが、その後はひるんでいるヨブをさらに攻め立てる事を言い続け、最悪の事態になってしまいました。ですから最後に神からの叱責を受けています。
 この桃井さんのインタヴュー、私はヨブの友人のようにはなりたくないですが、その証には幾つか気になる事があります。
 病気の妻の為あえて神に癒やしの奇跡を求めなかったというのは正しいです。奇跡は基本的に聖書で完結しているからです。勿論現代においても神は、必要とあれば奇跡を起こす事がお出来になりますが、概してそれを体験した人は神から離れています。
 次に桃井氏はナチスドイツで処刑された神学者ボンヘッファーを引用しています。「神の前で、神とともに、神なしで生きる」。けれどもそんな難解な思想を引用しなくても、聖書のイエス・キリストのみことばで十分です。「私たちの大祭司(*キリスト)は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです」(ヘブル4:15)。だから私たちはこの偉大な同情者イエス・キリストにより頼みます。桃井氏は「神を信じながらも依存するのではなく、自立しなければならない」と言っていますが、間違いです。「…もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした」(コリント第二1:9)。ここに出て来る「より頼む=ギリシャ語ペイソー)にしても、最も一般的な「信じ、信頼する=ピステウオー)にしても、完全に神に依存する事なのです。信じる、信仰を持つという事はそれにかかっています。ですから人間に過ぎない神学者ボンヘッファーの言葉より、どうして聖書のみことばにより頼む事をしないのでしょうか。神を信じ信頼するのは、自立とは無関係です。
 さらに突然の妻の死を受け入れる事が困難なのは、私たちどの信徒でも同じで、回復までに一定の喪の期間が必要です。しかし「酒びたりになりかけた」という経験は普通ありません。なぜなら聖書は「酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい」(エペソ5:18)と言っているからです。聖書全体からしても信徒が酒を飲む事は通常禁じられています。ただ病気がちな人が少量のぶどう酒を飲む事くらいが例外であるだけです。
 四国のお遍路=88ヶ所のお寺を巡ることだって、キリスト教とは無関係です。心の癒やしは全て聖書のキリストが与えて下さるからです。
 最後に「自然からのメッセージ」も必要ありません。神なるキリストのメッセージだけが肝要です。
 それゆえ聖書のみことばに基づかない証は中途半端で、地の塩、世の光としてのインパクトを与えません。
 とはいえ、大変な苦難を通過した桃井さんの事を責める私も、いつしかヨブの友人たちのうちの一人になってしまたったようです。失礼しました。