ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

足湯の奉仕をする人々と聖書のイエス・キリスト

 3月26日の朝日新聞では、大震災被災者に対する「ボランティア手探り支援」という題で、神戸の団体の事が紹介されていました。
 その団体の主要な働きは「足湯隊」が担っています。吉椿雅道さんがリーダーです。
 氏の指導のもとに約10人の若い学生たちが、家を追われ山形県米沢市の市営体育館に身を寄せる人々に、足湯の奉仕をしています。
 写真には通信制高校で学びをしている地元の田井治尚さんと、手もみを受ける福島から避難して来た関本吉一さんと思われる方が写っていました。
 それを見て私はいたく感動しました。まだ21歳と若い田井治尚さん、健気に手をもみながら、被災者に話しかけています。
 勿論被災して住み慣れた家に帰る事の出来ない関本さんは雄弁である筈がありません。ポツリポツリとした会話になってしまいます。しかし田井治さんはその一言一言を聞き漏らす事なく、傾聴しています。
 これが大切なのです。置かれた状況には月とすっぽんほどの差がありますから、奉仕する側としても所詮言葉を失ってしまいます。でもひたすら傾聴しながら、自分の出来る事だけを行なうのです。「頑張って」と言うのは禁句です。既に避難して来た人々は最大限の努力をし、頑張って来たわけですから。
 中には愛する人を失い、心は喪失感でいっぱい、言葉も出ない人々もいるでしょう。聖書には「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい」(ローマ12:15)というみことばがありますが、奉仕者は本当に言葉が出ません。ですからただ手を握り、肩を抱きながら泣く人と共に泣き、その喪失感を共有するほかありません。
 しかしそうした中で心の痛手を負った人々は、徐々に癒やされてゆきます。不思議な事です。私が「生と死を考える会」で学んだのもそれです。
 救い主イエス・キリストも全知全能の方でありながら、弱く萎えた人々に対して決してご自分を押し付けられません。やさしく静かに、相手に対して「何をしてほしいのですか」と尋ねておられます。
 また使徒パウロの口を通し、「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい」(ピリピ2:3)という事の大切さを身をもって示されました。ヨハネ伝13章5節にあります。
 「それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた」(ヨハネ13:5)。
 田井治尚さんは身を低くし、40歳以上も年上の関本さんの足を生姜湯に漬け、手をもみました。逆に主イエスは師匠でありながら、弟子の足を洗われたのです。奉仕の大切さについて模範を示されました。
 私たち主の弟子もこうありたいものです。ああ世の人々、特に天下った東電の幹部たちは、被災者たちいや日本の国民に対して何と高慢な事か!