ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

東電は本当に原発の事を詳しく知っていたのか

 3月29日の朝日新聞に東大院生の開沼博氏が「『信心』捨て自ら考えよう」という題の小論を投稿していました。
 この論文の冒頭で開沼氏は「『危険ではない、問題はない』と専門家は繰り返す。しかし、素人目には時々刻々と事態が悪化しているように見える。何を信じ、どう行動すべきか分からない」と言っています。
 専門家と素人、この差は度し難いほど大きなものなのでしょうか。新明解国語辞典では、専門家とは「その方面に関する高度の知識を(技能)を有する人」とあります。ネットで調べますと、原子力工学を専攻出来るのは、東大、京大、東北大、九州大学など、かつて帝国大学などと呼ばれたごく僅かな大学に過ぎません(私立もありますが)。偏差値の高い大学ですから、現在のような受験体制では、刻苦勉励のような若者では入れません。金持ちのエリート家庭で育ったぼんぼんが多いと思われます。ですから新明解国語辞典は「専門」という意味で、「専門の知識は深く持っているけれども、世間一般の常識はほとんど皆無に等しい状態の人をけいべつ、あるいは揶揄して言う言葉」とも定義しています。
 それゆえ原子力の専門家や天下った東電の管理者たちは、「重い荷をくくって、人の肩に載せ、自分はそれに指一本さわろうとはしません」(マタイ23:4)と救い主イエス・キリストに揶揄された律法学者、パリサイ人たちに譬えられます。
 東電の社長は過労と称して病院に入院しており、そこから電話一本で放射能を浴びる危険な作業に携わっている人々に命令を下しています。しかし素人目には、仮病を使って安全な所に居座り、万策尽きたら早く高額な退職金をもらってさっさと逃げてしまおうという魂胆ではないかと映ります。
 また開沼氏が「素人には理解しがたい高度な科学技術の結晶である原発に向けられるまなざしは、『国が、東京電力がやっているのだから信じるしかない』というある種の『信心』だ」と言うように、素人は高度な専門知識を有する東電幹部らの発言をただ信じるしかありませんでした。
 東電の広報を担当して来た人々についても同じ事が言えます。彼らもほぼ素人ですから、幹部らは本当は怖い原子力について「原発は安全安心」というまやかしの言葉を徹底的に吹き込んで「洗脳」させて来ました。今広報担当者らは言葉を失い、謝罪を繰り返す辛い立場に置かれています。
 しかしここに来て、彼ら専門家たちは「想定外」な原子力事故の連鎖反応を見て、「なぜなのか、納得できるようなメカニズムは説明できない」などとうそぶいたり、嘆いたりしています。
 すると素人たちには開沼氏の言う「猜疑心」が芽生え、次第に「塊」を形成してゆくようになります。素人であるマスコミの東電に対するバッシングなどがそれに当たります。それは避けなければなりません。
 でも事原子力に関する限り、聖書にある「人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです」(コリント第一8:2)というみことばが、暴走して制御出来ない原発事故を目の当たりにした専門家たちの心を貫いています。
 これから犠牲者が多く出るはずです。高慢で利益先行の専門家たちの責任は免れません。
 だから主イエスはこう言われたのです。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える。』と言っています。あなたがたの罪は残るのです」(ヨハネ9:41)。