ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

電子メディア依存の危険性

 4月18日の朝日新聞「私の視点」欄で、東洋大学藤本貴之准教授が「電子メディア依存 紙媒体との使い分け必要」と題して投稿していました。
 この文の冒頭で氏は「日常生活における情報入手の手段として近年、インターネットなど電子メディアへの依存が急速に高まっている。その一方で、新聞や雑誌など紙媒体の不要論まで出ている。それは『進歩』なのか」と疑問を呈した上で、むしろそうした現象は「退化」ではないのかと憂慮しています。
 氏が言うように、電子メディアはインターネットを取り上げても、本当に膨大な情報が存在し、調べたい事柄を検索機能で活用しても、なかなか良いものに出会わず、ページをめくる途中で諦める事もしばしばです。たとえヒットしてそれをパソコンのマイドキュメントに保存してもすぐ一杯になり、外付けのハードに移管せざるを得ず、それからフォルダー毎に情報を取り出すのもおっくうな事です。
 以前は紙媒体、特に雑誌や新聞の切抜きを片っ端からスキャンして保存しましたが、書類が机から消えたというだけで、PDF化され文書を見る時間がなかなか取れず、最近ため息ばかりついています。
 そうした情報は氏が言うように「私たちの関心をも局所化」させてしまいます。情報の全体像を把握するのが次第に困難になります。
 ところが新聞(私が見ているのは新聞だけで、本は図書館から借りています)には、「情報を局所化しない特性が」あります。まさにその通りで、多様な情報を紙面という限られた中で「俯瞰」出来るのです。ですから私も新聞の隅々まで目を凝らしてよく読みます。高校時代の友人など、それだけでゆうに半日はかかると言っています。
 その中で自分と違う考え方を発見したりすると、さらにそれをネットで調べるという形がとれますから、それは単なるネットサーフィンとは異なります。そうした作業を通して、私たちは自分自身をもっと深く知るようになれるでしょう。またネットには中傷記事も満ち溢れていますが、新聞では抑制されますから、快適に読む事が出来、じっくり学習する事が可能です。
 氏が結論で言うように、電子メディアと紙媒体との共存、その上手な使い分けが望ましいでしょう。
 ところで聖書の時代では、情報は勿論聖書のみことばが主体で、世俗の情報には限りがありました。パウロの伝道で世界は広がり、ギリシャ哲学などの情報も入ってきたと思いますが、ユダヤ人たちはそうした情報に振り回されず、聖書を学び、それを子孫たちに伝えて来ました。
 「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」(マタイ4:4)。
 そのように聖書という1冊の膨大な紙媒体の情報だけで私たちは基本的に十分だと最近特に思っています。あとは肉体に必要な糧さえあれば、よく生きて行く事が出来ます。