ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

自分自身の中にある脇役とは

 立元幸治著『「こころ」の出家』を読みました。副題は「中高年の心の危機に」とありましたので、興味を抱き早速図書館で借りて読んだわけです。
 第1章の出だしに神吉拓郎の作品が紹介されていて、面白そうでしたが、後はユング吉田兼好、フロム、種田山頭火、ジョージ・ギッシング、ソローなどの著作が引用され、あまり副題の解明がなされていない印象でした。
 その中で最後の第5章の終わり頃、著者は有名なバリトン歌手のフィッシャー・ディースカウと、そのピアノ伴奏者の事を挙げていました。
 良く知られていますが、ディースカウはシューベルトの「冬の旅」などでも完璧さを追及し、ピアノ伴奏者の間取りなども絶妙です。同じように彼は若い人々に伴奏の持つ意味の重要さを説いていた事が分かります。
 そこから転じてた立元氏は、実人生の伴奏者、あるいは脇役の事を論じていますが、それは実際の友人や伴侶といった他人ではありません。
 「それは、自身のなかの脇役、自身のなかの伴奏者という存在である」。
 人生の半ばに自分の考え方が固定してしまい、視野が狭くなってしまった時、「もう一つの視覚、もう一つの価値観がそれを補正し、鼓舞し、新しい意味を与える、いわばそんな脇役的な役割を、もう一つの座標軸に期待することはできないだろうか」と問うています。氏はソローの有名な『森の生活』などにその答えを捜しています。そしてその中で突然石原裕次郎の歌なども出て来ます。しかし今一つ分かりにくい面があります。
 それが聖書ですと極めて明快です。それは著者の意向とは逆転する関係にあります。聖霊という自己のうちに住まわれる神と、自己の霊との関係です。
 「けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません」(ローマ8:9)。
 救い主イエス・キリストを主として告白した人の心には、神の第三位格である聖霊が住んで下さいます。キリスト教信徒はこの聖霊を心のうちに宿した者であり、実はこの方こそ自己のうちの「主役」なのです。
 「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます」(ヨハネ14:26)。
 このように主役である聖霊がその御指示を受ける私たちの霊に絶えず語りかけ、罪があればそれを正し、気落ちしていれば鼓舞し、聖書を通し新たな生きる意義を教えて下さいます。私たちの霊はこの聖霊との交流の為に存在します。ですから主役の聖霊に対して、私たちの霊はあくまで「脇役」であり、自分を前に出さない、へり下った「伴奏者」なのです。
 この関係は信仰がなく、ただ聖書を読んでいる、知っているというレベルでは、決して成り立たないものです。信仰を持てば、この聖霊が導いて下さるので、中高年の危機といったものは存在しなくなります。