ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

大岡玲著『ワインという物語』を読む

 大岡玲氏は有名な詩人大岡信氏の長男です。東京外大で言語学を勉強しているので、該博な知識を持っています。おそらくは聖書の原語であるヘブル語やギリシャ語についても、或る程度学んでいると思われます。
 この本はワインに関わる話なので、筆致は軽妙です。副題には「聖書、神話、文学をワインでよむ」とあって、特に聖書のワインをどう考えているのか興味を持ちました。
 勿論信仰者ではありませんから、第1章の聖書に関わる記事では誤まりも散見します。著者はワインに酔っているので、いささか神の事を「冒涜」しています。それはとにかく聖書の冒頭にあるアダムとエバの話で、著者は「邪悪なヘビ」の創造、「善悪を知る木」がエデンの園に存在した事への疑問を呈していますが、これは私たちにとっても難問ではあります。
 それより著者はこの善悪を知る木の実の正体を求め、それをワインの木にしたらどうだろうかと奇天烈な問題提起をしています。そしてその元のブドウの木の栽培を始めたノアの話に飛んで行きます。ブドウ栽培はノアの洪水以前の人々が始めていたでしょうが、ノアはそれで作ったワインで酔い、裸になってしまいます。今日の酒による乱痴気騒ぎの予示です。ノアの子ハムがそれを見て笑ったのは確かでしょうが、父親ノアはそれを知ってそのハムの子となるカナンを呪っています。これも謎の一つではありますが、その子孫のカナン人が「ワインを飲んで性的祭儀…をおこなう、まさしくディオニュソスバッカス的な習俗を持った連中だったのだ」という推定は面白いと思いました。ちなみにディオニュソスとはギリシャ神話に出て来る酒の神です。
 著者はこのノアのエピソードから聖書の飲酒に対する態度を提示しています。カナンの地において「ワインは大切な飲み物であり、生活に必須不可欠な存在である」と言っていますが、それは正鵠を射ています。
 しかし次に著者はヘブル民族の間では「それを飲んで酔っ払い、かつ楽しむのはいけない」と続けています。でも「飲めば酔うに決まっているものを、飲んでも酔うなとは無理難題である」と言って、後の西欧キリスト教世界の特質に触れています。
 それは「二枚舌」です。つまり表向きは戒律を守り、その裏では思う存分酔っ払う、といった二重性が中世やルネッサンスを通し、色濃く反映されていると、氏は主張しています。
 さらに聖書の主の晩餐ではブドウ液が登場しますが、それはイエスが十字架で流された血を象徴するものでした。ブドウ液は自然発酵でブドウ酒になります。
 そこをローマ・カトリックは、いや大岡氏は捉え「中世の修道院でワインがさらなる成長を遂げ、今日ふんだんにわれわれが飲める基礎ができたのだから、ありがたいと言うべきだろう」と述べています。不真面目さの中にちょっぴり真実も込められていると思います。
 聖書の原則は以下の通り。
 「また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい」(エペソ5:18)。
 しかし聖書地での身体の弱い人(特に説教者のテモテに対して)にはこう言われています。
 「これからは水ばかり飲まないで、胃のために、また、たびたび起こる病気のためにも、少量のぶどう酒を用いなさい」(テモテ第一5:23)。
 ここでは酔わない為に、少量のぶどう酒を薬代わりに飲む事への勧めも見られます。私は今日でもそれは適用されると思っています。
 少量のぶどう酒が足の静脈瘤の激痛を和らげてくれるからです。酔いに対しては聖書が強力なブレーキをかけてくれます。