ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

垣添忠生著『妻を看取る日』を読みながら考えた事

 図書館で上記の本を借りて読みました。職業柄こうした本はよく読みます。
 垣添氏は1941年生まれで、私より5年年上です。国立がんセンター名誉総長という肩書きからして、もっと年上だと思っていました。
 東大医学部卒とありますから、たぶんノンセクトとして東大闘争を経験したのでしょう。卒業後大学医局に残らず、青医連の紹介で或る病院に研修医として就職しました。他の病院にもアルバイトで出かけ、そこで生涯の伴侶となる人を見つけたわけです。
 ただ相当年上である上、事実上夫と離婚状態にある人でしたから、親兄弟は大反対、順調とは言えない結婚生活のスタートでした。
 その最愛の奥様ががんにかかってしまいました。過去2回のがんは幸いにして治りましたが、3回目のがんはたちが悪く、様々な器官への転移を起こし、治療が不可能となりました。奥様は死を覚悟し、病院からしきりに家に帰りたいとせがみました。
 そこで垣添氏は一大決心し、栄養剤の点滴、自動注入ポンプの取り扱い、点滴バッグに入れる利尿剤など各種薬剤について、病棟看護師から特訓を受けて、自らも医師なので、一人でケアする事にしました。このあたりは私も母の在宅治療決心と全くよく似ており、私の場合さらに酸素マスクの追加、インスリンのバッグへの注入など必死で行なった事を覚えています。
 帰宅の日には安堵された奥様でしたが、それからひどく悪化し、4日目には亡くなってしまいました。ちなみに私の母の場合、やはり家で看取る事では安心したと思います。病院では周囲の気兼ねもありましたし。でもその母もおよそ2週間で天に召されました。
 垣添氏はその時思いっきり泣きました。また諸々の手続きが済んで、家に奥様と二人だけになった時も涙が溢れ、止まるところを知りませんでした。
 それだけ奥様の為に泣き崩れた垣添氏でしたが、その後「鬱状態」に陥ってしまいました。
 その垣添氏を支えたのが酒で、毎日酒浸りの日々が続いたそうです。しかしその酒もうまくはなく、ただ量を重ねたそうです。でも鬱は改善されず、新聞を読んでもただ字面を追うだけ、夜が来ても眠れず睡眠剤の助けを借りなければなりませんでした。それは相当重度の鬱でした。
 それが私の場合、唐突な母の死で茫然となり、その後もずっと涙が出ませんでした。死に際にかろうじて側に居たものの、最後の声かけも出来ず、それが今日に至るまで心の傷とはなっています。
 でも私は鬱にはなりませんでした。必死になって母の好きだった短歌を作り、詩も作り、ひたすら聖書を読んでいました。これではきっと後で鬱が襲って来ると思いましたが、とうとうそれはやって来ませんでした。今にして思えば、自己の救い主イエス・キリストがいつも側にいて慰めて下さったからでしょう。
 それはイエスが十字架で亡くなられた後、喪失感に打ちひしがれていた弟子たちも同じでした。主は自ら三日目に甦る事を何度も宣言しておられ、事実甦って弟子たちの前に現れられました。それは弟子たちにとって最初の「イースター」(=復活祭)となったのです。そして主は天に戻られましたが、代わりに慰め主としての聖霊を遣わして下さったのです。弟子たちは絶望と喪失感から、大いなる希望と力を受け、もはや打ち沈む事はありませんでした。
 垣添氏も比較的早く酒びたりの日々から解放されましたが、無宗教と言われる氏が信仰を得て、真の平安のうちにいのちを全うされる事を望みます。