ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

権威・権力・大衆の常識

 7月12日の朝日新聞では、医者であり作家でもあるなだ・いなださんが、40年ほどにわたるロングセラー『権威と権力』について触れていました。この本昔私も読んだ事があります。
 なださんはネットで「老人党」を立ち上げ活動していますが、私もお気に入りに入れており、時々見ています。お年寄りの知恵というか、いろいろ参考になる意見が多々あり、65歳になった私のようなワケあって「例外的」貧困者である者には有益なサイトです。
 原発事故以来特に「専門家の権威」が揺らいでいるという事で、記者がなださんを訪ねて行ったのでしょう。なださんが持論を展開しています。
 果たして現在の世の中、お上や専門家の権威や権力にすがらなくても暮らしてゆけるのかという問題です。政府が発表するデータ、専門家が発する「安全だ」という宣言をもはや信用しないで、自分たちで考えてみようという人々が大分増えています。なださんは「権威というものは過去の信用が積みかさねられてつくられたものでもあります」と言っていますが、事原発に関する限り、そんな過去の信用の積み重ねがあったのかと言いますと、とんでもない!素人にも分かりそうな稚拙なミスを何度も繰り返し、しかもそれをひた隠しにし、バレてもお前ら素人に何が分かると恫喝し居直って来たのが、原発の専門家を自称する人々でした。過去を十分検証してゆけば、彼らに信用の蓄積などほとんど無かった筈です。なだ式定義では彼らに「権威」など存在しなかったと断言出来ます。
 そしてなださんが重視しているのが「常識」です。英語のコモンセンスですが、「大衆というものは、バカの集まりだと見る人もいるかもしらないが、しかし大衆の中にあるコモンセンスこそ、民主主義を信用する足がかりだと私は思います」と言っています。卑近な例が刑法で、別にその細かな規定を知らなくても、普通の人々はちゃんと生活し、自己を律しているわけです。
 イエス・キリストはまさに「権威者」でしたが、地上でのご生涯で「権力」を揮う事はありませんでした。かえって自分を低くし、大衆と同じ目線で福音を伝えられました。
 「ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです」(ピリピ2:7)。
 しかしキリストは「権威」と「権力」を振り回す学者・パリサイ人といった人々には容赦されませんでした。
 「律法学者、パリサイ人たちは、モーセの座を占めています。ですから、彼らがあなたがたに言うことはみな、行ない、守りなさい。けれども、彼らの行ないをまねてはいけません。彼らは言うことは言うが、実行しないからです。また、彼らは重い荷をくくって、人の肩に載せ、自分はそれに指一本さわろうとはしません」(マタイ23:2−4)。
 でもキリストはご自分の弟子として「無学な、普通の人」(使徒4:13)を徴用されました。彼らの常識を尊重されたのです。後に彼らは新約聖書の立派な書き手となりました。