ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

日本人の大半が自分を愛せないのか

 内田樹さんの『邪悪なものの鎮め方』という本を借りて読みました。内田さんの本はどれも必ずと言ってよいほど、深く考えさせるものが含まれています(その全てとは言いませんが)。ご自身文章の書き方には随分気を使っていると思われますが、時々外国語由来のカタカナ語が入っていて、それを理解しないと全体がわかりにくいという箇所があります。一生懸命辞書を開いて意味を調べるという作業が必須ですが、それだけ労する価値はあります。
 この本でも付箋を入れておいた箇所は多くありますが、自分の仕事と関わりがある箇所と言えば、最後の方に出て来る「あなたの隣人を愛するように、あなた自身を愛しなさい」という文章です。神戸女学院大学の卒業式での訓示です。
 出典はマタイ22:34−40の中の39節にあります。既に旧約のレビ19:18にも出て来ます。
 「『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです』」。
 非常に大切な箇所なので、クリスチャンなら良く覚えているはずです。それは第二の戒めですが、第一は37節にあって「そこで、イエスは彼に言われた。『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』」です。いずれも信徒に対するイエス様のご命令です。
 内田さんは「クリスチャンではない」と言いますが、神戸女学院大学というキリスト教精神のもとで建てられた大学の職員を長らく続けており、聖書の事は良くご存知です。
 そこで何が私を引きつけたかと言いますと、この第二の戒めにある「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という聖句の後半への内田さんの考察です。
 そこで内田さんは「自分を愛することは容易であるが、隣人を愛することは困難であると解する」と言っています。私たちもそう捉えているからこそ、祈って嫌な相手であろうと、他人を愛するよう努めています。しかしその後です。「私たちは自分を愛する仕方を熟知していると言えるだろうか」と、問題提起をしています。これには私も考えさせられました。この自分を愛するというのは、いわゆるナルシシズムとは全く違います。神を愛する事、隣人を愛する事、いずれの場合も動詞「アガパオー」というギリシャ語が使われています。これはイエス・キリストとの関わりで大切な言葉です。世の中の愛はフィレオーという動詞で愛情を持つといった意味合いです。キスをするという訳語もあります。たぶんに肉欲的な愛に近いと思います。
 それで内田さんは毎年3万人以上の自殺者が出ている事を引き合いに出し、彼らは自分を愛する事が出来ず、「こんな私に生きる価値はない」と、「自己卑下」「自己嫌悪」して自殺したのではないかと推察しているわけです。
 対象が自殺者だけでなく、この貧困格差がますます増大している社会で、滑り台から転げ落ち二度と這い上がれない多数の若者たち(それに高齢者、障害者も)が、こんな落伍者を競争に勝った他人が愛せるはずはないと、低く自己評価をしてしまうのは大いにあり得ます。
 もしそのような人が救い主イエスの犠牲的な愛を知ったら、もはやその時からこのような者でも、神の目から見れば尊い(イザヤ43:4)と言われる自分を愛し、大切にし、その上で全力を挙げて、神と隣人を愛するようになれます。
 内田さんは最後に他人への持続的な愛を持てるようになれば、それはとりもなおさず、自分を愛するほどに成長した事になるとも言っています。納得。