ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

政府の原発に対する二心

 3月11日の東日本大震災、特に福島第一原発災害は、日本全体を暗雲の立ち込めるものにしてしまいました。なぜならこの原発災害は今も全く終息しておらず(放射能の性質を考えた時、事実上それはあり得ない)、空を通しまた海を通して日本全体を汚染させているだけでなく、世界にも大きな被害と不安をもたらしているからです。それはチェルノブイリ事故のその後の経過を見ても全く明白な事です。政府や役人の好きな言葉で言えば、「国益を損ねた」事になります。
 その責任がまず第一に東電にあるのは間違いありませんが、原発を推進して来た歴代の政府・産業界等も勿論の事です。そしてそれに反対し、抵抗して来た私たち一般庶民も、その一端を担っていた事になります。電力の豊富な供給を享受して来たのは、福島ではなく私たちでもあるからです。
 しかし圧倒的な政府・役人・電力会社の「権力」の前にはほとんど無力に等しく、太平洋戦争後軍国民一人一人にも責任があったとする「一億総懺悔」論とは少し違うと思います。原発の旗振りを積極的に行って来たのは、それほど多くの日本人ではないからです(今その対象者は手ひどいバッシングに遭っていますが)。山口二郎コムの山口氏も、「原発の効用と本来の費用について正確な情報が公平に提供された中で、国民が原発を選んだわけではない。むしろ、安全神話が垂れ流される中で、原発が押しつけられたのが真相である。国民には思考を停止した責任はあるだろうが、奸策を弄して原発を推進した政治家、官僚、専門家の責任とは区別しなければならない」と明快に述べています(http://yamaguchijiro.com/?eid=932)。
 そして取り返しのつかないほど大きな災害をもたらした日本が、これまでと違って「脱原発」の方向に向かわなければならないのは当然です。8月6日の広島平和記念式典に出席した管首相は、それを自分自身又政府の方針であると明確に述べました。けれども後に個人的見解と修正してしまいました。脱原発は唯一原爆の被爆国である日本国民の大半の意志を反映させていると思うにも関わらずです。その背後に国民、特に被災地の人々の苦難を無視する政治家や産業界の人たち、官僚などが存在していたのは間違いありません。
 にもかかわらず全く考えもしなかった事態が生じました。広島平和記念式典の前日の閣議では「海外への原子力発電所輸出を継続する方針」を打ち出したのです。それは主として原発事故が起こる前から、政府方針として原発輸出を決めていたという事情もあります(ベトナムへは昨年11月に決まっていました)。その矛盾した姿勢にも「国際信義を守る」「国益を守る」という思いがあるからでしょう。
 でもこと原発に関する限り、国際信義を裏切る事は「国民感情」に適っていると考えます。
 ここに国民の方へ目を向く気持ちと、原発を推進しようとする官僚や産業界、他国の方へも目を向く気持ちの二つを合わせ持つ政府の明確な矛盾が露呈されました。
 これについて聖書では厳しい事を言っています。
 「そういうのは、二心のある人で、その歩む道のすべてに安定を欠いた人です」(ヤコブ1:8)。
 「罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい」(ヤコブ4:8)。
 私たちは人間である権力者の前には非力であっても、全能の神が上から見ておられ、来たるべき日に正しい裁きを行われるでしょう。