ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

モーツアルトは最後のレクイエムを書きながら信仰を持ったのか

 2011年10月3日の朝日新聞「文化の扉」欄に、「はじめてのモーツアルト」という題で吉田純子記者が報じていました。
 モーツアルトはその軽やかで親しみやすい曲が受けて、多くのファンを獲得しています。私も幼い時ラジオから流れて来るものは覚えた事がありますが、中学・高校と進むと、その華々しさが家の境遇(父が連帯保証人をしていた会社が潰れ、引っ越しをせざるを得なくなり、母が過労で倒れました)とそぐわず、対照的なブラームスシューマンなどにのめりこんで行きました。ところがその後モーツアルト短調の曲がある事を知り、交響曲40番や弦楽五重奏曲第4番などは好んで聴いています。勿論晩年の傑作レクイエムもそうです。私の教会の高齢の方が召された時、遺書に葬儀でそれを流して欲しいとあったので、私がCDを持っていった事が記憶にあります。
 ところで上記コラムに、モーツアルト研究家の高橋秀郎さんが登場し、「人間の力をもって神の矛盾を突き上げることのできた唯一の芸術家だった」と語っているのが気になっていました。35歳の若さで死ぬ直前、未完となったものの精魂傾けて作曲したレクイエムから、彼が神との関わりではどうだったのか知りたくなりました。「人間の力をもって神の矛盾を突き上げる」、これは一体どういう意味なのでしょうか。
 しかしモーツアルト、神、信仰で検索しても、レクイエムを書きながら、彼が実際信仰の世界に入ったのかどうか、よく分かりませんでした。それまで彼が教会音楽に興味を示していた事はあっても、自ら進んで作曲する機会はほとんどなく、このレクイエムも或る依頼者があり、十分なお金の提供もあったから手がけたという事のようです。
 レクイエムとは「死者の為のミサ曲」という意味です。これはラテン語で書かれたカトリック典礼です。カトリックの教義では、罪の問題を解決出来ずに死んだ死者の霊魂は、煉獄という所に行きます。そこで死者は自己の罪の贖いをする事が出来ず、地上の信者の祈りなどによって救済されるというものです。
 ですから聖書だけを頼りにする私たち(私はバプテスト教会所属です)の教義とは、真っ向から対立します。特にモーツアルトが生前完成させた第一曲レクイエム、第二曲キリエ、大半を書き上げたと言われる第三曲セクエンツィアのうち、第一曲のレクィエム・エテルナム・ドーナ・エイス・ドミネ(主よ、彼らに永遠の安息を与えたまえ)という執り成しの祈りは、聖書にありません。既に生きていて信仰ある人は罪赦され、天に召される前から永遠の安息が約束されているからです。そして第二曲のキリエ・エレイソン(主よ憐れみたまえ)に進んでから、モーツアルトが一体どんな事を考えていたかが問題です。
 吉田記者によると、若い頃のモーツアルトは、「お人よしで社会性に欠け、下ネタ大好き」という奔放な生活を送っていたようです。晩年のオペラ「魔笛」の内容をネットで調べても、およそキリスト教の信仰とは無関係です。高橋氏の言う「神の矛盾」はどういう事か、依然として私には分かりません。
 そのようないわば放蕩の彼が死ぬ直前、罪を含む全てを主に委ね、「主よ哀れみたまえ」と祈ったのなら、彼は救われているでしょう。それはカトリック典礼の如何を問わずです。
 もしそうでなければ…。その意味で私が召される時はブラームスの「ドイツレクイエム」を流してもらうつもりです。それはレクイエムと銘打っていますが、ドイツ語で書かれた「生者を慰める為の曲」であり、全て聖書から(1曲だけ外典)採られているからです。母の葬儀でも使いました。