ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

言葉に音を取り戻そうという天野祐吉さんのメッセージ

 2011年10月4日の朝日新聞では、広告批評で有名な天野祐吉氏が「言葉に音を取り戻そう」と、東京でのトークショーで提案した事を伝えていました。 天野さんは朝日新聞で「CM天気図」という欄を軽妙な筆致で連載しています。私もよく読んでいますが、3・11東日本大震災以後は、軽率なコマーシャルに対して厳しい批評をするようになったと思っています。
 その天野さんは特に大震災後いっそう「言葉が壊れてしまった」と言っています。政府や東電が「何を言っているかさっぱりわからない」とズバリ批判しています。なぜなら彼らの「気持ちや感情が、言葉の響きのうちにないから」という事になります。だから「自分の感情に誠実な言葉を使うことを、震災後の日本をつくり直す原点にしないといけない」わけです。気持ちや感情が被災者に伝わらないから、被災者も苛立ちます。ウソ偽りに満ちた事実を隠し、感情を押し殺して極力無表情で会見に臨むから、無味乾燥な話となり、あの人は人間味が有るのかという後味の悪さだけが残ります。
 そこで天野さんは「言葉に音を取り戻そう」と主張します。
 その例として平家物語の冒頭「祇園精舎の鐘の音…」、「金魚〜、金魚〜」、「たけや〜、さだけ〜」などを持ち出しています。なるほどなあ〜と思いました。文章を書く時も「音が感じられる」ものを心がけているそうです。
 そうした事を考えながら思いだしたのが、現代も世界の各地に散らばっている旧約聖書のラビ(教師)たちの言葉です。彼らは分厚い旧約を全て暗記しているそうですが、その方法は言葉にリズムを付けて繰り返し読む事です。私が持っているカセットでは、詩篇などの一部でそれを披瀝していますが(全部そうしたら幾らカセットやCDがあっても足りません)、本当に独特なふしまわしです。聴く者もヘブル語の響きがよく伝わってきます。
 しかし一般の人々がそれを聴く機会は少ないと思います。でも新約ならどうでしょうか?それとの関連で思い出したのは、シュッツやバッハが作曲したマタイ受難曲ヨハネ受難曲です。これはCDで買えますから、古典音楽が好きな人は味わう事が出来るでしょう。
 あのエヴァンゲリスト(本来伝道者を意味する言葉)が、合唱や独唱の間で頻繁に登場し、ある時は悲惨さを込めた口調で、ある時は大切な福音を力と感情を込めて語っています。
 それは聖歌や賛美歌でも同じで、私の教会の音楽指導者はいつもその中の言葉を朗読させ、意味をしっかり捉えてから歌うよう強調していました。
 天野さんはまた、明治時代以降「語り口で様々な感情を表す方言が排斥された例」にも言及しています。その通りです。
 大震災で大きな被害を受けた岩手県の気仙地方の方言は勿論良くわからないところもありますが、そのケセン語で書かれた新約聖書は、極めて味わい深いものがあります。というか、それは今出回っている標準語の分かりにくい新約聖書への挑戦となっています。一部を訳したのはその地方の医者である山浦玄嗣氏です。山浦先生へのインタヴューがユーチューブで見られます(http://www.youtube.com/watch?v=gkZ6UuMnQBE)。
 私たちも言葉に音を取り戻すべく努力しましょう!