ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

エジプトのコプト教会襲撃の意味

 エジプトで30年も軍事独裁政を敷いて来たムバラク政権が倒れたのは、今年2011年2月の事でした。広範な国民の民主化要求デモに屈した形で退陣しました。その政権を崩壊させた主役は、8千万の人口のうち約3分の2を占める30歳以下の学生たちだったとネットの情報にありました。今はやりのフェイスブックは、連帯の広がりを狙う若者たちにはうってつけの手段だったのでしょう。私はいまだその仕組みが良く分かりませんが。
 そうした過程をニュースで見ながら、その「革命」による国内の混乱はスムーズに終息し、知恵と知識をもった新しい指導者による新たな民主政権が誕生するだろうと予測していました。
 ところが実際はそうなりませんでした。ムバラクが一手に握っていた全権は、エジプト軍最高評議会というものに移行してしまいました。下からの平和的民主的な政権組み立てという形にはなりませんでした。軍の各部署から10名を越える長たちが集まりいろいろ協議した結果、タンタウィ国防相がトップの座に就きました。いろいろ改革の動きはあったのでしょうが、ムバラクとの関わりが深い人だっただけに、引き続き国民の不満は収まっていません。
 そうした中10月9日に、信教の自由の保障などを求めるキリスト教の一派コプト教徒らによる抗議デモと、軍治安部隊が衝突し、少なくも25名が死亡、負傷者は300名以上に達しました。
 コプト教会の始まりは相当古く、紀元1世紀頃と言われています。当時アレクサンドリアを拠点にしていました。そこの文献はほぼ全てがギリシャ語で書かれています。ローマ帝国の手厚い庇護を受けていた為、新約聖書の写本が多く残されています。大文字で書かれたアレクサンドリア写本(5世紀)は特に有名です。しかしコプト教会ではコプト語に訳された聖書をずっと用いて来ました(最近のネット情報では、礼拝も聖書もアラビア語のものに変わりつつあると言われています)。黙示録などに出て来る教会が消滅した後も、このコプト教会は細々と続き、現在に至っていますが、それでも人口のおよそ10パーセントほどと言われています(8百万人の信徒がいるわけで、日本のような実質100万人にも達しない国とは、影響力の点では相当異なるでしょう)。

 その教義はカトリックを始め様々ですが、ムバラク政権末期でも過激な行動をとる事はなかったと信じます。ですから今回の軍による虐殺の抗議デモも、平和的な行動となっています。それが注目されたのは、2月の騒動以来初の軍事的暴挙となったからです。
 タンタウィ軍最高評議会議長は、これからまず議会選挙、次いで大統領選挙を行ってから権限を新大統領に譲ると言っているそうですが、このコプト教会のデモ弾圧を見ても、状況は混沌としていて、どうなるか分かりません。その為カイロ大学のムスタファ・カメル・アル・サイード教授はじめ、多くの指導者たちがいろいろな意見を述べており、スムーズに高い見識のある新大統領が選ばれるかどうか全く予想がつきません。聖書でもそのような実情をこう述べています。
 「国にそむきがあるときは、多くの首長たちがいる。しかし、分別と知識のあるひとりの人によって、それは長く安定する」(箴言28:2)。
 この首長たちと訳されたサールというヘブル語は指導者、グループの長、当局者、支配者などと多様な解釈が可能です。そうした人々が互いに譲り合い、一人の分別と知識のある人が大統領に選ばれ、エジプトが長期に安定する事を願います。