ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

私たちに付き纏うプライドーよほど用心しないと

 2011年10月13日の朝日新聞で、月読寺・正現寺住職の肩書きがある小池龍之介さんが、「プライドは価値を示したい煩悩」という題で、エッセイを書いていました。小池さんによる「プライドという煩悩から心を守るお稽古」です。
 家庭でも職場でもそうでしょうが、わりに些細な事から私たちのプライドは傷つけられてしまいます。「自分の価値=魅力=力が強いのだと実感できるからこそ、そうでない現実に心が乱れる」ためです。この「自分の力を示したい、というプライドの煩悩が強すぎる」と、傷ついた時の怒りは大きなものとなります。
 そこまで行かなくても、日常生活で自分の事を悪く言われた時「むっとした」経験のある人は少なくないでしょう。
 この煩悩という言葉は仏教用語ですが、手元の国語辞典を幾つか引いてみても、「怒り」まで含めたものは一つしかありませんでした。「煩」という漢字を「漢辞海」という辞典で調べると、語義として「もだえいらだつさま」とありますから、その一つである新明解国語辞典に「仏教修行・精神安静のじゃまとなる一切の欲望・執着や、怒り・ねたみなど」とあって、ちゃんと「怒り」が含まれています。
 そして小池さんは「今の世にあふれるモンスターペアレンツもクレーマーも、ネット上にたくさんある匿名での悪口も、相手をボコボコにたたいて屈服させることによって『自分は価値=力がある』と錯覚したいというプライドが原因だと思われます」と言っています。まさに的確な指摘だと思いました。
 特に最近のネット上の悪口はひどいですね。「『プルトニウムは重くて飛散しない』とは武田先生も言ってたけど、台風とかでかき回したら飛散するのは当たり前だろ。お前ら知的障害者か?」といった具合です。
 ところで聖書を見ますと、このプライド(高慢)は全書にわたり頻繁に出て来ます。それだけ人間に普遍的な罪だからです。
 「ひとりの人によって罪が世界にはいり…」(ローマ5:12)、その最初の人が妻との間で儲けたのがカインとアベルでしたが、カインはプライドが傷ついて「ひどく怒り」とあるのは象徴的です。そしてその怒りで彼は弟のアベルを殺してしまいました。
 救い主イエス・キリストは人の心から「…姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさ」などあらゆる罪が出て来る事を言われました。ここで「高ぶり」と訳されたギリシャ語ヒュペレーファニアは、勿論プライドの事です。そしてなぜキリストはプライド(自分を高める気持ち)を特に嫌われるのでしょうか。それは「高ぶる者はかがめられ、高慢な者は低くされ、主おひとりだけが高められる」(イザヤ2:17)とあるごとく、罪で汚れた人間を超越し、ただ聖なるご自身だけが高められる為でした。そしてそのプライドこそ、世界で起きている争いの原因となっています。「高ぶりはただ争いを生じる」(箴言13:10)。
 このプライド私たちクリスチャンでさえ、よほど気をつけないと同じ状態に陥ります。だからキリストはこう言われました。
 「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい」(マタイ6:1)。
 しかもある高名な説教者が述べたように、私たちは隠れて行なった善行を自分自身にさえ告げ知らせてはならないのです。日々の損得勘定を一切忘れてしまわなければなりません。そして人前では常に、「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい」(ピリピ2:3)というみことばを実践しなければなりません。
 小池さんは最後に、学校や企業や有名人へのクレームは、される側は失うものが多いためほんのちょっとした過ちでも「すみません、不手際でした」と屈服せざるを得ないと指摘しています。クリスチャンは失うものがない為、「すみません!」と直ぐ素直にあやまる事が出来ます。このブログで私もクレームをつける事がありますが、それは聖書の基準に従っての事で(主イエスは正当な怒りを認めておられます)、間違う事もあります。どんどんご指摘下さい。