ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

拝金主義中国での悲劇

 マルクスは『法哲学批判序論』の中で「宗教は追いつめられた者の溜息であり、非情な世界の情であるとともに、霊なき状態の霊でもある。それは人民の阿片(アヘン)である。人民の幻想的幸福としての宗教を廃棄することは人民の現実的幸福を要求することである…」(手元にその本が無いので、ネットからお借りしました)と述べました。でも聖書の創造のはじめに神が人を造られた時、「その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった」(創世2:7)とあります。霊なき人間、土の塵から造られた人間はそのままではただの身体的存在に過ぎず、神によってそのいのちの息を吹き込まれた時、初めて生きた魂、生きた存在となったのです。霊(神との交わりの場)、魂(人の諸々の感情などを司る部分)と身体を備えた霊的人間の誕生です。しかるに人間は罪を犯し、堕落してから、その霊の部分は新しく生まれ変わらない限り死んだ状態となり、それは今日でも同じです。しかし魂を備えた人間がそれだけで飽き足りる事はなく、絶えず神との霊的な交わりを求めて飢え渇いています。申命記に有名な「人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる」(申命8:3)とある通り、パン(又は物質)だけで人は決して充足せず、従って幸福にはなり得ません。
 そのマルクスの思想を受け継いだレーニンソ連体制は崩壊しました。その後中国がそれに取って代わり、社会主義を標榜する大国となりました。中国が依然として宗教は阿片と叫んで、ひたすら経済成長に走り、「拝金主義大国」となったのはけだし当然の事です。
 朝日新聞2011年10月30日号では、その拝金主義を中国の隅々まで追ってルポしたものでしょうが、宗教無き国家の人民が物質的生活を著しく向上させながらも、その心は決して幸福ではない事を如実に示しています。その社会主義体制は富の分配が不公平で、少数の人間が不当な手段で富を得ている事がこのルポでは露わにされています。即ち贈収賄が公然と行なわれ、模範となるべき高官ら(裁判官、検事らも含まれています)が率先してそれを行い、統計から見てもその腐敗の浸透ぶりが分かるそうです。「善を行なう人はいない。ひとりもいない」(ローマ3:12)。
 そこで一つ悲劇が生じました。拝金主義に染まった杭州市の元副市長が不動産の転売で巨額を利益を得、さらにその権限を利用しての収賄で、実に24億円ものお金を稼いでいました。当局だって贈収賄は日常茶飯事なのに、なぜかこの元市長は7月に処刑されました。たぶんその額が桁外れだったからでしょう。死刑になる前、元市長は「地位が上がるにつれて利権も大きくなった。初心を忘れ、カネに勝る物はないと思うようになった」と告白しています。ここに大きな悲劇が生じたわけです。カネこそ全てに勝る全能のモノ。元市長はただ魂と身体だけの「動物的人間」に過ぎず、ひたすらカネを偶像として崇拝し、遂に身の滅びを招いたのです。聖書にある通りの事が成就しました。
 「金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります」(テモテ第一6:9)。
 この場合元市長は金銭欲と誘惑と罠に陥って自滅した事になります。処刑直前彼は一体何を思ったでしょうか。