ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

愛する人を自宅で看取る事

 2011年12月3日の朝日新聞では、「人生の最期は自宅で迎えたい?」という題で、そのアンケート結果を報じていました。
 それによりますと、「回答は50対50、見事に拮抗した」とあります。
 「はい」と答えた人々で最も多かったのは、「最期は自分のペースで過ごしたい」であり、次いで「家族とともにいたい」、「延命治療など意に沿わない医療はいや」などが続いています。一方「いいえ」と答えた人々では、「家族に負担をかけたくない」という理由が圧倒的に多くありました。双方に共通しているのは、1延命治療は受けたくない、2痛みや苦痛をなくしてほしい、3身の回りを整理しておきたい、4介護を受けず「ピンピンころり」(急に死ぬ)などが上位を占めていました。
 私たちも「はい」にせよ「いいえ」にせよ、そんなものかと納得出来る内容だったと思います。
 私の母の場合、愛し尊敬していたので、訪問介護の助け(主として血圧測定と排泄介助)を得ながら自宅で最期を迎えさせました。ただその場合でも点滴管理、酸素機械の扱い、痰吸引とそれを出しやすくする為のネブライザーの使用など、比較的高度なテクニックを要しました。そうした体制が整っていないと、自宅での看取りは難しいでしょう。
 ですから家族に負担をかけたくないと思っている人々は、病院やホスピスに行くと思います。ちなみに日本の現実は在宅死から病院へと転換したのが1977年、以後その差がどんどん開き、2009年の統計では、81パーセントが病院で亡くなり、在宅死は僅か12パーセントだったそうです。
 この記事を考えていた時、朝日の夕刊の連続記事「自宅で病気と向き合う」の8回目、国立がん研究センター名誉総長だった垣添忠生氏の事が紹介されていました。氏は4年前愛妻が正月休みで一時帰宅が許可された時、その自宅で看取る結果になったのでした。その顛末とその後の事が『妻を看取る日』という本に書かれています。今回再度図書館で借りて読みました。なかなか優れた内容です。
 垣添氏は東大医学部の青医連に属し、東大闘争を戦った経験があります。ですから最初医局に残らず、都内の病院を転々としていた時、入院していた奥様と知り合いました。駆け出しの医者と関節炎の治療を受けていた患者という「不思議な巡り合せ」でした。今なら富裕なお坊ちゃまに対して、良家のお嬢様が積極的にお見合いをするか、同じ医局の女性との出会いで結婚するのではないでしょうか。
 とにかくこの垣添氏は奥様を愛して止みませんでした。奥様が治療不可能ながんに陥った時は、とにかく病院での治療を続行させましたが、ふと彼女の漏らした言葉「年末年始は家へ帰りたい」というのが、氏には「家で死にたい」という事だと聞こえました。そこで自らも医者であり、自宅で看取るだけの高度な技術を持っていますから、その短い期間に私と同様医療器具一式を持ち込んで看護に当たりました。
 やはりそれは正解で、到着した日はとても嬉しそう、生気が戻って来たとあります。これが在宅での看取りの大きなメリットでしょう。
 しかし奥様にとり付いていた末期がんは過酷で容赦しませんでした。翌日から容態が悪化、4日目の大晦日に奥様は目をパッと見開き、垣添氏をしっかり見詰めてそのまま息絶えてしまいました。ちょうど私の母の場合と同じでした。垣添氏が大きなショックを受けひどい鬱になったのは、上記の本に克明に記されています。私自身その場面だけはPTSDのように突如戻って来ます。
 でも時が徐々に癒しを与えてくれるようです。一般に死別の時点で多く悲しんだ人の回復は早いようです。
 最後に死を悟った為、「遺言」を残し、滞在の地エジプトで子らに見守られて安らかに息絶えた旧約のヤコブの例を挙げておきます。
 「ヤコブはその子らを呼び寄せて言った。『集まりなさい。私は終わりの日に、あなたがたに起こることを告げよう…ヤコブは子らに命じ終わると、足を床の中に入れ、息絶えて、自分の民に加えられた」(創世49:1,33)。
 その死では子らもエジプトの民も七十日間泣き悲しみました。しかし喪の期間が過ぎた時、残された子らの心の痛手はわりに早く癒されたのでした。