ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

再び中島敦の短編小説を読む

 再度図書館でちくま日本文学に収まっている中島敦の本を借りて読みました。目的は「文字禍」という短い小説を読む為です。3月25日のブログでコメントして下さったiireiさん(http://d.hatena.ne.jp/iirei/)のご紹介です。以前は「名人伝」でした。
 この文字禍を中島敦の名前と共に検索すると、結構読後感を寄せている人がいます。読み方はいろいろですが。この小説家、33歳の若さで亡くなっています。もっと長生きしていたら、優れた短編が多く生まれたと思います。

 この文字禍の概略はこうです。「文字の霊などというものが、一体、あるのか、どうか」という書き出しから、物語が展開されています。舞台はアッシリアの首都ニネベで、聖書でもしばしば出て来ます。そこでの奇妙な噂は、「文字の精霊」なるものが存在し、人々に禍をもたらしているというもので、アシュル・バニ・アパル王(*実在の人物)は、老博士ナブ・アヘ・エリバを召して調査を命じました。当時の文字はエジプトなどで盛んだったパピルスが入手出来ないので、粘土板に楔形文字という形で書き留められていました。従って書物は瓦で、収納庫はさながら瀬戸物屋の倉庫です。博士はひたすら文字の霊について書かれた瓦を探しますが、見つかりません。
 そのうち博士は書物を離れ、一つの文字を凝視するようになりました。すると不思議な事に、その文字が解体し、一つ一つの線の交錯としか見えなくなりました。そのバラバラの線に一定の音と意味を与えるものは何か?そこで博士は初めて文字の霊なるものを認めました。ところがニネベの町で最近文字を覚えた人を訪ねると、皆一様に禍を受けています。「文字禍」です。博士の上を行く博学の老人は文字禍にやられました。博士の所に訪ねて来た若い歴史家も、文字禍によって損なわれようとしていました。実はこの老博士も自分にもたらされている禍を認知していました。それは文字の凝視によるものだけでなく、見詰めるあらゆる対象物が、その部分部分に解体されてしまうのです。このまま文字の霊の研究を続けると自分も危ない、そこで老博士は王に「文字の盲目的崇拝を改め」るよう進言して退場しますが、それは王の機嫌をはなはだ損ねました。老博士はそれも文字の霊の働きによるものと悟りました。そして最後ですが、老博士が自宅の書庫にいた時、地震が起こり、彼は夥しい数の書物つまり瓦の下敷きとなり、圧死してしまいます。文字の精霊は呪いと共に、博士を死に追い遣ったわけです。
 そこで直ちに浮かんで来たのは、この文字の精霊ではなく、まったくその逆の働きをされる聖書の「聖霊」です。
 「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊(=聖霊)であり、またいのちです」(ヨハネ6:63)。
 「神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格をくださいました。文字(=モーセの律法)に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです」(コリント第二3:6)。
 これらを見ますと、聖書のみことばこそ聖霊であり、しかも聖霊は人々に呪いをもたらすのではなく、生かす、つまり永遠のいのちを与える方であるという事です。信徒が聖書のみことばを老博士のようにじっと見詰めていると、そこに宿っておられる聖霊なる神が働きます。そしてその方が霊的に死んでいる私たちを生かし、呪いではなく祝福を与えられるのです。生まれつきの人々はいのちを与えない律法で呪われ死にますが、それはこの中島敦の言っている文字禍に他なりません。この短い小説から聖書の深い事柄を思索する事が出来ました。iireiさんに感謝!