ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

科学と技術の今

 東日本大震災のうち、福島第一原発の事故は完全に「人災」でした。相変わらず素人なりにその原因を考え、いろいろ学んでいます。
 科学と技術、これは原発でも結びついていますが、その歴史を簡単に学んでみました。最近出た池内了著『科学と人間の不協和音』はなかなか面白かったです。勿論科学と宗教にもしばしば触れていますが、それ以上に科学と技術の今を考えさせられました。
 池内氏によると、科学者(サイエンティスト)という言葉が作られたのは、1840年代の事だったそうです。尤も古代ギリシャ時代以降、「科学」とは、本来物質自然を対象とする自然科学だけでなく、政治・経済・芸術など「学芸全般に関わる知の総体」を意味していたそうです。要するに科学は文化であったわけです。一方「技術」とは、組織化された手練や経験知の事で、古代ギリシャでは人口の80パーセントを占める奴隷がそれを担って来たそうです。そうした背景から科学は文化の諸相の中核を成し、技術は文明の基礎と言う事が出来ると、池内氏は主張しています。それは面白い見方だと思います。
 ですから科学と技術は長い間分離しており、本来別物だからその役割も異なっているという事を認識するのが大切です。ちなみにヨーロッパでは今でも技術を科学よりも一段下と見る風潮があるそうです。
 科学が文化であるからには、その意味で人々の役に立っており、「不用の用」に価値を見出す鷹揚さが市民に欲しいと池内氏は強調しています。
 ところが現代においては「科学」と「技術」が急激に接近しています。「科学の技術化・商業化」です。容赦のない市場原理・競争原理の導入により、様相ががらっと変わってしまいました。かつて科学的知識は公共のものとして、誰もが利用可能でしたが、それがそうではなくなったのです。私は米国のサイトを閲覧しようにも、見たければ金を払えとばかりに「要旨」しか載せません。
 私たちが大学で闘争をしていた頃、「産学共同」という志向は粉砕の対象でした。ところが今はその「産学」にもう一枚、政府(官僚)が絡む形で、「産官学」という実態が、既に行政法人化した「国立大学」で顕著になっています。池内氏によると企業原理を大学に導入する為に法人化したと言えるときっぱり言い切っています。それで大学も全くおとなしくなってしまった学生たちを尻目に、積極的に「産官学」に参加し、特許や著作権の推進、企業からの援助資金の受け入れに奔走しています。教員はその知的財産の権益に守られ、「知の私有化」を急速に進めています。そこには税金を払う側の市民への自由な知的成果の還元など、すっかり萎んでしまいました。こうした状況で生じたのが福島第一原発の事故であったと断言出来るでしょう。官が加わった事が重大な事態を招いたと言えます。
 ところで池内氏はその科学と宗教との関わりについても再三触れています。米国の原理主義的なキリスト教保守派の言動が情報源でしょうが、残念ながら間違いが大いに見られます。今そこまで触れませんが、私たち聖書に科学を持ち込む時は、得られた事実を謙虚に調べています。そして歴史的科学の分野(地学・天文学等、検証が不可能な分野では、両者対比の上で、どちらが論理的解釈になっているかを提示しており、必ずしも現代科学の成果を聖書と合わないからと、ばっさり捨てるような事はしていません。
 「俗悪なむだ話と、偽りの「知識」による反対論とを避けなさい」(テモテ第一6:20)。この知識と邦訳された言葉(ギリシャグノーシス)を、英国欽定訳では「サイエンス」と訳していますが、はなはだ示唆的です。