ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

巨大建築とバベルの塔

 2012年4月15日の朝日別刷り「グローブ」で、巨大建築を特集していました。
 ドバイ(アラブ首長国連邦)、中国、米国、そしてスカイツリーの日本などの建築が紹介されていました。米国では9・11のテロの標的にされながらも、また日本では有数の地震国として想定外はあり得ないのに、どこでも巨大建築の計画はまだまだ続きそうです。かなり裕福な国々で目だっているようです。

 左図の矢印先端星条旗が見えるのが「タワー1=1WTC)です。 
 なぜ建築家らはそうした巨大建築を作ろうとするのでしょうか?このタワー1などの建造を訴えた経営者の一人ローランド・ベッツは、「おれたちはテロに屈しない。以前よりすごいビルを建ててみせる…あの場所に再び高いビルを建てることが自分たちのリベンジ(*復讐)だ」と言っています。
 一方この近くにタワー4を設計した日本人槙文彦は「超高層建築…グローバル資本主義の落とし子のようなもので、自己の存在を誇示したいという投資家らの欲望の象徴でもある」と言っています。
 世界一高いドバイのブルジュ・ハリファ(*ブルジュは塔、ハリファはアブダビの首長)を設計した米国建築家エイドリアン・スミスは、「人が高い建物を建てるのは、『誰も成しとげていないことをやってみたい』という本能的な欲求があるからだろう。建築家にとっても、それは抗しがたい魅力だ…大衆も人間が成しとげた功績への誇りを感じる」と述べています。
 一方建築に関する面白い本を多く出している隈研吾は、「なるべく巨大なものはつくりたくない…地面から遠ざかると、抽象的な物体になっちゃう…僕が理想とする人間と空間の関係ではない」と反論を述べていますし、若い建築家もどんどん「高層嫌い」になっているとの事です。
 中国も巨大建築が盛んですが、建築家王澍は「『大きくて勇猛な』それらを見ると、嫌いで、鳥肌が立つ。高層建築というのは一つの欲望だ。ある種の権力や富を示したいという欲望であって、生活そのものがすばらしいかどうかとは一切関係がない」と言っています。
 これだけの建築家や経営者の考え方を羅列しただけで、高層巨大建築に対する思いが相当違う事が分かります。人間の果てしない高いものに対する欲望・誇りと、出来るだけ目立ちながらも地面に近い低いものへの志向(広島西消防署を設計した山本理顕もそう)と言えるでしょうか。
 これらを考えると、すぐ聖書のバベルの塔が浮かんで来ます。勿論これまでも何回か触れた事があります。ノアの洪水以後まだ全地が一つのことば、一つの話しことばだった頃の事です。彼らはシヌアルの地(おそらくバビロニアに存在)で定住した時、こんな事を考えました。
 「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから」(創世11:4)。

 これは塔を建てる者たちの典型的な「自己の栄光を称える」行為でした。それは神の栄光とは真っ向から対立するものです。そこで神はこうされました。
 「それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。主が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、主が人々をそこから地の全面に散らしたからである」(創世11:9)。
 ここで神は民の言葉を「混乱させた」とあります。ヘブル語は「バーラル」で「バベル」と少し違いますが、実はアラム語では「バルベル」です。アラム語は聖書では旧約の後のほうと、新約の一部で使われていますが、バビロニア(*帝国の公用語)では使用されていたと思われます。これがなまってバルベル→バベルになったのではないかと言われています。
 この塔建造の民の言葉に混乱が生じたので、建造は途中で放棄され、民は全地に散らされたのでした。人間の高慢・欲望・誇り…根深い罪です。ただ私は高層建築を見て楽しむ事を否定しているわけではありません。