ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

文豪夏目漱石とは

 iireiさんの「夏目漱石の『こころ』〜三角関係の恐ろしさ」(http://d.hatena.ne.jp/iirei/20120429#1335696534)を読んで、私も久し振りに現在の立場から考えてみようと思いました。図書館で借りたのは集英社の日本文学全集に収まっている夏目漱石(ニ)です。そこに『こころ』と『それから』が入っています。荒正人が解説しています。

 勿論他にも『草枕』とか「門』なども読んでいますが、私は文芸評論家ではないので、上記2冊から「これだ!」と思った事は浅薄かも知れません。でも原発事故が起きてから、いわゆる専門家が当てにならず、私たち素人が懸命に勉強して批判するのでないと反原発が力にならないのと同様、文芸の世界でもそういう事があって良いのではないかと思い、あえて上記iireiさんの書評との関係から考えてみた次第です。とても夏目漱石の全集を読んで、大上段に論評する時間も能力もないので、極めて限定された2冊から得た自分の所見だけです。
 iireiさんの題は「三角関係の恐ろしさ」です。にもかかわらず『こころ』は「世界的な傑作です」とあります。私は前半は良く理解出来るし、付箋の箇所を読んでも、まさにiireiさんの指摘された箇所と一致します。不信に思ったのはなぜそれが「傑作」なのかという事です。
 一般に夏目漱石は「文豪」だと言われています。新明解国語辞典の定義では「(年をとった)大小説家」です。さらにネットで調べると、「(1)ロングセラーがあり、時代を超えた人気がある。(2)後生に影響力が強い」人となっています。ちなみに日本の文豪は5人で、幸田露伴森鴎外夏目漱石谷崎潤一郎三島由紀夫だとの事です。また作品の中身よりその人となりの評価が高い小説家と言っている人もいました。
 そこでこの2冊ですが、iireiさんも言われるように、男2人と女1人の三角関係が主題です。『それから』の長井台助、友人の平岡と、平岡の妻三千代、そして『こころ』の先生、中学時代の旧友K、或る軍人の未亡人の娘です。
 こうした三角関係の小説は世にゴマンとあるでしょうが、なぜそれらが生き残らず、文豪の作品だけがロングセラーで、後世に影響力を強く与えているのでしょうか。
 それは荒正人が言うように、「罪と罰」という執筆の動機があったからでしょう。「人間の本質が罪ふかいもの」という自覚を漱石は持ち続けました。『それから』の台助の場合、平岡に好きだった三千代を譲りながらも、その生活がうまく行かない事を知り、大胆にもその人妻にあえて結婚の意志を告白した結果としての「罰」は、悩む三千代の病気、平岡の絶縁や台助の父の勘当などでした。『こころ』では、iireiさんが「なんと残酷な」と評された「先生」のきつい言葉がきっかけとなったKの自殺、また娘さんを手に入れた「先生」の自殺です。
 漱石はそのように「罰」としては、罪を懺悔=告白して絶対者である神に救いを求める設定をしていません。2冊とも結末は悲劇です。
 そうした救いようのない問題を扱っているのに、文豪夏目漱石はどうして「文豪」であり、後世に読み継がれているのかという事を自分なりに考えてみました。結論は出ませんでしたが、読んでいて率直に感じたのは、ほとんど横文字なく漢字と平仮名で淡々と綴られている文章、露骨な性描写が入っていない事、罪深い人間の本質を強調する文章が強い効果をもって挿入されていて、それが同じ罪深い私たちにも強烈な衝撃を与え、自分の問題として深く考えさせられる事等々があるのではないかと思いました。また恬淡な文章にもかかわらず、読者を飽きさせず、ぐいぐい先まで読ませる文章力も挙げられるでしょう。
 実はそれは聖書の「罪と罰」の問題と良く似ています。恐ろしい「姦淫」の罪が淡々と描写されています。またそうした姦淫の罪を実際に犯さなくても、キリストは「心の姦淫」の罪を指摘しておられます。誰にでも当て嵌まるでしょう。救われている私も同じです。
 「しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです」(マタイ5:28)。
 それにもかかわらず、なぜ聖書の「罰」の問題は、漱石と対照的なのでしょうか。実はそこに神であるキリストの「赦し」という極めて大切な事柄が書き記されているからです。
 「すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕えられたひとりの女を連れて来て、真中に置いてから、イエスに言った。『先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにする(*死刑)ように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。』…イエスは身を起こして言われた『あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。』…彼らはそれを聞くと、年長者から始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された…そこで、イエスは言われた。『わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません』」(ヨハネ8:3〜5,7,9,11)。
 そのようにこの女は姦淫と言う重大な罪を犯したにもかかわらず、イエスに身を委ねた為、イエスはこの女の罪を赦されたのです!従ってこの女はもはやきよめられた者と見做され、「無罪放免」となりました。その未来に対する希望は大きなものがあります。
 聖書の目立つ特徴は「罪」の容赦ない暴露と、結果としての「罰」がありながらも、それを告白する人の豊かな「赦し」がある事です。だから日々心の罪を犯す愚かなこのしもべでも、告白によって再度神との霊的交わりが回復し、上を目指して歩む事が出来るのです。
 漱石の作品と聖書、似て非なるところがありますが、皆様はどう思われるでしょうか?