ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

南千住回向院吉田松陰の墓

 2012年5月17日電車の回数券を買う為に南千住駅まで行って来ました。松戸から直ぐです。そしてついでに近くの史跡などを見て来ました。
 まず駅から直ぐ側にあるのが回向院です。

 まずこの「回向=えこう」という言葉の意味ですが、仏語で「読経な念仏・法事をして、死者の冥福を祈る」事とあります。この寺は別に小塚原回向院とも呼ばれていて、目の前を走る常磐線を渡った所にあった小塚原刑場で刑死した人々を供養する為、1667年に建てられました。

 この回向院の中に安政の大獄(1858年)で刑死した橋本佐内、吉田松陰などの墓があります。さらに入り口の所に観臓記念碑というものがあり、杉田玄白らが解剖に立ち会った事を記念して建立されました。荒川区教育委員会の説明板がありました。右画像を拡大するとよく分かります。中に入って市場奥の×印のあるのが橋本佐内の墓です。そしてその左のさらに奥に吉田松陰の墓があります。両者を比べると、吉田松陰のものがかなり小さいです。下左画像。

 橋本佐内のものが右画像です。相当立派なものです。

 吉田松陰の墓の刻印は「松陰二十一回猛士墓」とあります。松陰とは別の号で、そのいわれはウイキペディアによりますと、幼児の時の姓が「杉」だった為、 「杉」の字を「十」「八」「三」に分解し、これらを合計した数字が「二十一」となること、および、「吉田」の「吉」を「十一口」、「田」を「十口」に分解でき、これらを組み合わせると「二十一回」となる事という説明になっていました。なるほどと思いました。

 吉田松陰井伊直弼の逆鱗に触れて、1859年に首を切られました。満29才という若さでした。さぞ無念だった事でしょう。斬首される松陰のイラストは有名です。(http://d.hatena.ne.jp/supernil/20111104/1320395727参照)。
 その遺体は回向院に埋葬された後、改めて高杉晋作らにより、東京世田谷の地に改葬されたとありました。だから回向院の墓は小さいのかも?
 この吉田松陰が首を切られて埋葬され、さらに改葬された記事から、聖書の同じような人物が浮かんで来ました。イスラエルの初代の王サウルです。彼は次の王となるダビデの命を執拗に狙い、最後にはペリシテ人の手にかかって殺されますが、松陰と違うのは、一旦ベテ・シャンという地の城壁にさらされた事です。
 「彼らはサウルの首を切り、その武具をはぎ取った。そして、ペリシテ人の地にあまねく人を送って、彼らの偶像の宮と民とに告げ知らせた。彼らはサウルの武具をアシュタロテの宮に奉納し、彼の死体をベテ・シャンの城壁にさらした。ヤベシュ・ギルアデの住民が、ペリシテ人のサウルに対するしうちを聞いたとき、勇士たちはみな、立ち上がり、夜通し歩いて行って、サウルの死体と、その息子たちの死体とをベテ・シャンの城壁から取りはずし、これをヤベシュに運んで、そこで焼いた。それから、その骨を取って、ヤベシュにある柳の木の下に葬り、七日間、断食した」(サムエル第一31:9−13)。