ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

吉田秀和氏その1

 2012年5月22日、音楽評論に止まらず幅広い文化活動を続けて来た知の巨人吉田秀和氏が98歳で亡くなりました。

 今でこそCDは買わなくなりましたが、昔は吉田氏の勧める新曲を参考にクラシック音楽のCDを買うのを楽しみにしていました。
 NHKのFMではずっと「名曲の楽しみ」を続け、作曲家の一人一人その全作品を解説し、音楽(時間の都合で一部割愛の時も)を流していました。
 「名曲の楽しみ、吉田秀和」としわがれ声で始め、淡々と曲を述べて行く吉田氏のあの声を、現世では二度と聴く事が出来なくなったのかと思うと、淋しい気持ちになります。
 また新聞記事でも本でもそうですが、「〜かしら」で止める文章が多く、独特なスタイルを持っていました。
 ただ楽譜の読めない私(*スコアを持っていて独唱、合唱の部を読みながら分かるのは、ブラームスのドイツレクイエムだけです)には、音楽関係で出された本には必ずと言ってよい程楽譜の一部が載るので、知っている曲でもそこから歌い出せる事は滅多になく、つい読み飛ばしてしまう事が多々ありました。
 仏文学専攻でありながら、よくその楽譜を読み解けるものだと感心してはいました。吉田氏なら、ブラームス弦楽四重奏曲第一番の複雑な楽譜でも、すぐメロディーが浮かんで来るのでしょう。
 その全集は24巻もあり、とても読了する事が出来ないので、今回図書館で『人生を深く愉しむために』と『フルトヴェングラー』の2冊を借りて読んでいます。ブログでは2回に分けて述べて見るつもりです。
 最初の『人生を深く愉しむために』は、副題として「自然と芸術と人生と」となっています。
 この自然ですが、「人類が出現する前から存在していた自然をそのままにしておかず、いろんな変化を加えたり、自然に不自然な手を加える。それが人間というものだ…人間は自然と対立し、その埒外にはみ出している生きものだと言わねばならない」「もちろん、自然を破壊するのは人間だけではない。自然自体がそれをやる…」と明快です。聖書でもまず自然が造られて、最後の六日目に人間が創造されますから順序が合っています。さらに人間は本来その自然を管理する立場だったのに、罪を犯して堕落してから自然を破壊するようになりました。その時点以後自然もそれをやるようになり、今度の東日本大震災津波のように、人間自身の無力さを思い知らされました。
 それから芸術論に入りますと、「芸術は人間の在り方と根本的につながっている働きである」という定義付けをしてから、「芸術がそういうものである以上、芸術をつくったり、それで楽しんだりすることこそ、人間が自然の中にあり、しかも反自然的行為をし続ける存在である…」という事になります。堕落前の人間は園において、その自然を満喫し、それを造られた神を賛美して来た事でしょう。園のアダムは自然の中に生息する全ての生物に名前を付ける能力をも備えていました。
 そしてその大自然という庭園の中で絵画や彫刻が生まれて来ました。人間堕落後すっかり変貌してしまった自然(特にノアの洪水以後)、それも荒ぶる自然の中のものも、人間は絵画で表現して来ました(ドラクロアターナーの名が挙がっています)。
 そして吉田氏はこの本の大半を占める音楽論に移って行きます。勿論それも自然によって与えられたものです。堕落後の人間は神に立ち返っても、その神は目に見えない存在ですから、やはり主として周囲の自然から受ける恩恵を通して神を賛美したのではないでしょうか?ただ吉田氏はシェーンベルクの音楽などは、「自然と対蹠的」であると述べています。これは当っているようです。
 自然との関わりでは、ベートーベンの「田園交響曲」やマーラー交響曲などを縦横に論じています。特にマーラーにとっては、自然は「創作の原点でありすべてであった」のです(私は第一交響曲以外はあまり聴きませんが)。
 最後に吉田氏は自然と絵画、彫刻、音楽といった芸術を堪能して来た人間の死を見つめています。氏は77歳の時には既に死を予感し、改めて人間の生とそれを与えられた神の事を想っています。そしてこれまで「わたしのしてきたことは何だったのか?」と省察しています。親しい友人たちが次々と亡くなり、教会などで葬儀を行っていますが、そこに出席しながら吉田氏は人間とは生を受けて死ぬ時、すべてが無にもどるのなら、生そのものに何の意味もないと言っています。そしてマタイ11:7「イエスは、ヨハネについて群衆に話しだされた。『あなたがたは、何を見に荒野に出て行ったのですか。風に揺れる葦ですか』」からと思われる言葉を二度引用しています。
 この「風に揺れる葦」は弱く、優柔不断な一個の人間です。吉田氏はその人間の作り出した芸術ばかりを見詰め、肝心の永遠なる存在である神の事を考えて来なかったのかと自問しているようです。それから20年後急性心不全で亡くなる前の吉田氏は、上記の(バプテストの)ヨハネの後に来られた救い主イエス・キリストを見上げていたのでしょうか?キリスト教に基づく宗教音楽を知悉していた吉田氏なら、多いにあり得る事だと思います。
 最後に私としては救い主イエス・キリストと共に歩む人生なら、それを「深く愉しむ」事が出来ると確信します。