ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

脱原発弁護士河合弘之氏の闘志

 2012年6月4日の朝日新聞連載「プロメテウスの罠」に、弁護士の河合弘之氏が登場しました。

 河合氏は東京大学法学部を卒業し、1970年に弁護士として開業し、最初はビジネス弁護士として実績を上げて来ましたが、原子力資料情報室への財政的支援を表明している匿名の方からのお金を預かり、そこへ持参し故高木仁三郎氏と出会って話を交わしてから、反原発派として活動を始めました。そして現在はそのNPO法人の理事も勤めています。最初に関わったのが、福島原発3号機の混合酸化物燃料(MOX)を用いる運転の差し止め裁判でした。そしてその後浜岡原発差止訴訟弁護団長、大間原発差止訴訟弁護団共同代表を歴任していますが、訴訟の中には今も続いているものがあります。ネットの情報では(http://www.magazine9.jp/greenpeace/111005/)これまで裁判では20連敗して来たそうですが、それにめげず、朝日の記事によりますと、今度は東電の経営者・幹部を相手取って5兆5千億円にのぼる賠償支払いを求める株主代表訴訟を起こしました。「あれほどの事故が起きても、東電役員は責任を問われていない。おかしいと思いませんか」というのが、主たる動機です。これは東電相手ではなく、東電の経営者・幹部という個人に責任をとらせる裁判です。そうしないと、「原発ムラの集団無責任体制」が是正されないからです。
 私はこれは重要な事だと思いました。あれだけ大きな事故を起こした東電のトップが誰も刑事責任を問われていない現状は、誰が見てもおかしいと思います。(*これを書いていた6月12日の時点で、福島の住民1324人が東電幹部や国の原子力関係幹部らを対象に刑事訴訟を起こしました)。
 そこで河合氏の裁判での指揮ぶりを見たいと、図書館で『脱原発』という本を借りて読みました。これは広島生まれで1歳の時被曝経験をした作家の大下栄治氏との対談となっています。非常に興味深い対談ですが、中でも第二章「呆れた浜岡原発差し止め訴訟の全容」が面白いです。河合氏は原告側証人として石橋克彦氏(地震学の権威)、田中三彦氏(原発設計経験者)、井野博博氏(金属疲労に関する研究の第一人者)を迎え、斑目春樹氏(現原子力安全委員会委員長)ら東電側の証人との裁判のやり取りを、コメントをつけながら記述しています。
 それらを見ながら感じたのは、河合氏が高木氏らからいろいろ原子力の事を学び、その分野でも今やすごい知識を蓄積している事です。ですから世の地震学の権威、原発関係御用学者、金属材料学の御用学者らと、法廷で丁々発止の議論を戦わす事が出来ます。これまでの訴訟連敗の原因を顧みると、むしろ裁判長の方が勉強しておらず、東電研究者・御用学者らの意見をそのまま丸のみしている事が、この本からも良く分かります。
 この本の第二章では中部電力側証人が安全だと断言した事が、3・11福島原発事故で全く否定された事を、河合氏は特に意識して取り上げています。
 前富士常葉大学長徳山明氏「東海地震で地盤隆起などが起きても原発の安全性を脅かすものではない…(活断層は)原発敷地周辺にはない」。
 元東大地震研究所長伯野元彦氏「浜岡原発の原子炉建屋は良好な地番の上にあり…東海地震でも被害を受ける事は考えられない」。
 東大教授斑目春樹氏「原発は設計や建設、運転の各段階で国が一貫して審査し、かつ十分な安全余裕は持っている…まったく問題はない」。「非常用ディーゼル二個の破断も考えましょう、こう考えましょうと言っていると、設計ができなくなったちゃう…そういうものを全部組み合わせていったら、ものなんて絶対造れません。だからどっかでは割り切るんです」。「責任という意味がよくわからない…」。
 地震防災対策強化地域判定会会長溝上恵氏「南海トラフ沿いで地震を発生するのは二十キロで、M9を起こす地下構造になっていない」。 
 これらの問題が実際福島で生じてしまったわけです。しかし3・11前のこの訴訟は全面敗北でした。
 裁判所側「安全評価に問題はない」。「原告らの生命、身体が侵害される具体的危険があるとは認められない」。
 河合氏はこの時の裁判官3人は福島事故の惨状に鑑みて、「最大の屈辱を味わっている」と言っています。
 最後部分で河合氏は、責任者の第一が斑目氏で「万死に値する」と断言しています。そして彼の前任者である鈴木篤之氏、原子力委員会近藤駿介氏らが続きます。浜岡訴訟の裁判官も責任を逃れられません。
 今度の大飯原発再稼動を認めた野田首相の「私の責任で」という言及は、「事故が起こってしまったら、責任をどう取る」のでしょうか。河合氏の心の中では野田氏も「万死に値する」人物でしょう。
 聖書にも責任という言葉は出て来ます。特にエゼキエル書では、剣の来るのを警告しなかった者への血の責任を、主なる神は問うておられます。
 「しかし、見張り人が、剣の来るのを見ながら角笛を吹き鳴らさず、そのため民が警告を受けないとき、剣が来て、彼らの中のひとりを打ち取れば、その者は自分の咎のために打ち取られ、わたしはその血の責任を見張り人に問う」(エゼキエル33:6)。
 主の責任者処罰論は迫力があります。
 原発を容認した上記の人々は全て、「血を流した人々」の責任を終わりの時に厳しく問われるでしょう。