吉田秀和氏その2
前回に引き続き、今回は吉田氏の『フルトヴェングラー』を取り上げます。
この本を読むと、吉田氏がいかにフルトヴェングラーの指揮を高く評価していたかが良く分かります。
まずフルトヴェングラーは1886年生まれ、戦後の1954年まで生きた人ですから、当然ナチス・ドイツの時期と重なります。私もカラヤン同様、彼についてもそのあたりを危惧していました。それに対して吉田氏は彼とヒトラーが会った時の逸話を紹介しています。
ヒトラー「宣伝のため党の目的に甘んじて利用されるべきだ」。それに対して彼は「即座に拒絶した」。腹を立てたヒトラーが、「それなら強制収容所行きだ」と言いましたが、彼は「総理閣下、そうしていただけたら、すばらしい仲間に入れてもらえるわけです」と答えました。この返事にひどく面食らったヒトラーはただちにその場を去ったそうです。勿論彼は戦犯となりましたが、戦後すぐ釈放され音楽活動を続けました。
彼はずっとドイツに留まったわけですが、吉田氏によれば、それはイタリアのムッソリーニのファシスト政権で弾圧を逃れ、米国に亡命したトスカニーニとは対照的でした。彼「音楽家にとっては自由な国も奴隷化された国もない…ヴァーグナーやベートーベンが演奏される場所では、人間はいたるところ自由です。もしそうでないとしても、これらの音楽をきくことによって自由になれるでしょう。音楽は、ゲシュタボも何ら手出しできない広野へと人間を連れだしてくれるのですから」。トスカニーニ「第三帝国で指揮する者はすべてナチです!」。しかし彼は亡命など、ほとんど逃避にすぎないと考えていたようです。和解はありませんでしたが、吉田氏は二人の論争について、トスカニーニのほうが一部の理があるとは考えていたようです。
それはとにかく、吉田氏はこのフルトヴェングラーの死の前年、生演奏を聴いていますし、CDなどもほぼ全てを網羅していたようです。そしてそれを他の並み居る指揮者と比較して、きめ細かく論じています。こんな事が出来たのは、吉田氏のような巨匠だけでしょう。
吉田氏は彼について、「何度きいた演奏でも、きき直すたびにいつも何かかにか、新しくきこえてくるものがある。それも演奏というより、曲が新しい光で現れてくる」と言っています。そして彼の演奏スタイルを細かく分析しています。とにかく天下一品の名手なのです。それは私も持っているシューベルトの「グレイト」(ハ長調大交響曲)、そしてやはり私の手元にあるベートーベンの第九交響曲(バイロイト祝祭劇場での録音)、ヴァーグナーの楽劇「トリスタンとイゾルデ」などの解説でも展開されています。そうやって彼の指揮した他の名曲の解説をきくと、買えないにしても「欲しい!」という気を大いに引き起こしてしまいます。
吉田氏「彼は、楽譜の中に封じこまれた生命を解放し、全的に実現しようと目指す…作品の語ってきかせようとする王国を、音を通して、私たちの前に、目に見えるものとして、築きあげて見せようとした」。
「フルトヴェングラーは、過ぎ去った時代の巨匠ではなく、未来も指さしている音楽家と呼ばねばなるまい」。
こうした吉田氏のフルトヴェングラーに対する音楽評論を見ると、彼と聖書とが奇妙に繋がって来るのです。それを文中のイタリック体で示しておきました。
「そして、あなたがたは真理(*キリスト)を知り、真理はあなたがたを自由にします」(ヨハネ8:32)。
「わたし(*キリスト)が道であり、真理であり、いのちなのです」(ヨハネ14:6)。この真理のみことばは、読むたびに新しい発見があります。聖書は一様ではなく、いわばその中に真理が幾重にも重層化して存在すると言えるのではないでしょうか。
そしてそのみことばの中に隠れた真理は、神の第三位格である聖霊が、信じる者の心の中で全的に実現しようとして下さるのです。
「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます」(ヨハネ14:26)。
さらにそれは過ぎ去ったものではなく、未来をも預言している永遠の書です。
「人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない…」(ペテロ第一1:24−25)。
吉田さん、多くの卓越した音楽評論、ありがとうございました。