ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

大瀧雅之著『平成不況の本質』を読んで

 経済の本は私にはなかなか難しく、上記のような新書でも読み通すのは至難の業です。簡単な数式でも、良く考えると中が深くて理解は容易ではありません。この本も時間の関係で結構飛ばしてしまいましたが、随所に光る部分があって学ぶところが多かったので、記してみました。
 まず大瀧氏ですが、東大社会科学研究所の教授です。しかし全く御用学者ではありません。副題の「雇用と金融から考える」から、良く貧困や教育を考えています。

 まず序章に「失業こそが所得分配の不公正を招く最大の原因である。人は生活の安定があってこそ社会的な存在足りうるのである。そして社会的存在であること自身が、生きることの意味である…」「民主主義とは、本来、立場が異なる人々・集団の意見を時を惜しまず説得・集約するプロセスのこと…」とあって、大瀧氏の立場がよく分かります。
 第一章ではデフレと不況の違いを明確にしています。「デフレとは、物価が継続的に低下する現象をさす。一方不況とは国民経済の活動が滞り、賃金が低下したり失業が増加したりすること…」。「デフレが不況を引き起こしているという…主張することは、経済学の基本をわきまえていない」。そしてここ50年間、失業率は上昇し続けており、「現在の日本の失業問題は深刻なのである」。その意味で日本は30年間ほど不況が続いており、「構造改革」と呼ばれる反社会的な政策で、失業はさらに悪化していると大瀧教授は主張しています。こうした状況でインフレが起こると、潤うのは金融機関の役員・社員をはじめ高額所得層に限られます。
 第二章ではバブル期、構造改革期において、「国内より海外における工場建設が優先され、市民の雇用機会が奪われた様子が、はっきり見てとれる」と明快です。この対外直接投資は、東アジアにおける個人の生活水準が低い為、それに要する実質的経費も小さくなり、低賃金での雇用を可能にします。日本人の雇用機会は失われ、同じように低賃金にあえいでいます。企業は社会的責任を放棄しています。「まず雇用の確保が図られるべきであ」ると、大瀧教授は憲法25条「…健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する…」を引用しつつ主張しています。
 第三章では特に「派遣法緩和」による派遣社員の驚くべき増加が、企業組織の「株主主権論」と密接な関係がある事が述べられています。派遣社員は自社社員ではない為、企業は給与体系に無関心でいられ、「人は機械同然に扱われる」。だからそれは経済理論上好ましくない精度改革なのである」。
 第四章では改めて構造改革が取り上げられています。それは日本人の持っていた…「勤勉」「協調」「誠実」の精神を根本的に腐食させてしまったのです。大瀧教授は、新自由主義は社会そのものを否定する「反社会的」で極めて危険な思想である事を、具体的に述べています。銀行の投資信託や外貨建て資産運用などが述べられた後、郵貯の民営化が問題にされています。この複雑になった組織は、以前よりもますます非効率化し、過疎地の庶民には大打撃を与えました。身近な郵便局員とそこに住むお年寄りとの触れ合いは無くなりました。郵パックの人など笑顔で配達というイメージは全くありません。
 第五章(終章)は大瀧教授の主張が最もよく表れていますが、「社会的共通資本」という言葉も使われ、その名付け主宇沢弘文東大名誉教授の名も挙がっています。その意味は宇沢氏によれば「一つの国ないし特定の地域に住むすべての人々が、ゆたかな経済生活を営み、すぐれた文化を展開し、人間的に魅力ある社会を持続的、安定的に維持することを可能にするような社会的装置を意味する」という事です。大瀧教授はそれに反する教育の現状を徹底的に批判しています。今教育界ではITが席捲していますが、それと徹底した偏差値教育により、「人間固有の美しい多様な個性」が急激に規格化、画一化しています。全く協調性のない若者たちが量産されています。あとがきでも触れられていますが、「人は独りでも生きられると信じている人たちが増えて」います。とんでもない間違いです。大瀧教授はこうした日本社会のありようを批判的に考察して来ました。うまく纏められませんでしたが、一読をお勧めします。
 聖書は勿論皆が個性という賜物を与えられて生まれて来る事を述べています。
 「見よ。子どもたちは主の賜物、胎の実は報酬である」(詩127:3)。
 その子どもたちを「主の教育と訓戒によって育て」(エペソ6:4)、「互いに助け合い、その兄弟に『強くあれ』と言」(イザヤ41:6)えるようにする事、「互いに愛し合うこと」(ヨハネ15:12)、これが社会的共通資本の考え方の実現となるでしょう。