夏目漱石の『門』
久し振りに夏目漱石の本を続けて読んでいます。信仰者の視点からどうなのかという疑問からです。今回は『門』です。
主要な登場人物は野中宗助とその妻御米、宗助のかつての友人安井などです。
安井は京都の大学の近くに下宿していましたが、その後閑静な一戸建ての貸家に移ります。そこには御米もいました。そしてそこを訪ねて来た宗助は、彼女が安井の「妹」だという紹介を受けました。これは聖書の創世記に出て来るアブラム(後のアブラハム)が妻サライの事を2度も妹だと偽った事(実は彼の異母妹)を想定させます。御米は安井の「内縁の妻」だったようですが、本文には出て来ません。
この宗助と御米の出会いから、話は唐突にも二人の「不徳義な」「不合理な」夫婦関係に移ってしまいました。モーセの十戒のうち十番目の戒律「隣人の妻…を欲しがってはならない」への重大な違反でした。
そこから宗助の煩悶、良心の呵責が始まり持続してゆきます。その夫婦には子どもがいません。御米は3度の妊娠経験がありますが、いずれも不幸な結果になってしまいました。その都度御米はさめざめと泣きますが、宗助はただ慰めるほかありませんでした。その時御米も自分の事を「恐ろしい罪を犯した悪人」と見做していますが、それは胸のうちに秘めておかれます。ヤコブの子らの嘆き「ああ、われわれは弟のことで罰を受けているのだなあ」(創世42:21)を思い出させます。
御米はなぜ子どもが出来ないか、易者にも占ってもらいますが、ずばり罪の祟りだと言われてしまいました。それ以後二人はひたすら内にこもってしまいます。親和と倦怠が同居する毎日でした。
その日常が破れたのが、かつての友人安井の訪問の話を聞いてからでした。しかし安井が二人と再会する機会はありませんでした。動揺し苦悶した宗助は、ふと「信仰の心」を御米に問いますが、それ以上先に進みません。でも宗助は如何にして「今の自分を救う事ができるか」という事を考え始めました。
宗助は意を決して救いを求めるために鎌倉へ向かいました。参禅して解決を求めようとしました。しかし彼は悟りを得る事が出来ません。
その時に有名な彼の独白が綴られています。「敲いても駄目だ。独りで開けて入れ」。「彼はどうしたらこの門の閂を開ける事が出来るかを考えた」「彼は依然として無能無力に鎖ざされた扉の前に取り残された」「彼は門の下に立ち竦んで、日の暮れるのを待つべき不幸な人であった」。
宗助は鎌倉から家に戻りました。夫婦の生活は続きますが、二人の受けた「心の傷」に差があり、すれ違いの人生を予感させつつ終了します。
これは自力信仰の見事な失敗です。しかし聖書の救い主イエス・キリストはこう言っておられます。
「わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます」(ヨハネ10:9)。
人はこの方への信仰により全ての罪を赦され、救いを得る事が出来ます。自分の良い行ないを通してではありません。
私はそうした大切な事を考えるのに、この夏目漱石の『門』は最良の小説だと思います。