ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

イスラエル建国に寄与したイツハク・シャミールの死

 2012年7月1日タイム誌電子版(英文)では、「素っ気無い巨人:イツハク・シャミール(1915〜2012)の遺産」といった題で、元イスラエル首相のイツハク・シャミール氏がアルツハイマー病で死んだ事を報じていました。

http://www.al-nakba-history.com/palestinejustjustice/thezionistproject.htmlから写真をお借りしました。
 シャミール氏は1915年にポーランドで生まれました。1933年ナチスドイツが成立し、ユダヤ人排斥運動が始まった為、彼は1935年にパレスチナに移住しました。ところがそこは第一次世界大戦から1948年まで英国が支配していたため、彼は主要な攻撃目標をナチスドイツより英国に定めていました。
 ちなみに彼の父母や妹たちは、1939年ナチスドイツがポーランドを侵攻し占拠した為に、そこで亡くなったそうです。
 株式会社ミルトスを設立し、ヘブル語聖書対訳シリーズを刊行している河合一充氏によると、彼は反英闘争では最も過激なレヒ武装軍の指揮者として活動し、英国軍に付け狙われ、何度も投獄されたそうです。
 1948年イスラエルが建てられた時は、有名なダヴィド・ベングリオンが「建国の父」として有名になりましたが、彼はシャミール氏の事を、犯罪者・チンピラなどと見做していた事がタイム誌に書かれていました。その理由は分かりませんが、シャミール氏もまた真正なシオニストでした。1948年を破局の日(=アラビア語でアルナクバ)とするパレスチナの機関紙は彼の発言を載せていますが、こうありました。「イスラエルの地の定住は、シオニズムの核心であり、それがなければ、我々はシオニズムを成就させる事が出来ないだろう。それはとても単純な事だ」。
 彼は1983年にメナヘム・ベギン首相の跡を継いで首相となり、1年統治した後、1986年に再び首相となり、1992年の選挙で破れ引退しました。
 1991年湾岸戦争イラクイスラエルに向けてスカッドミサイルを発射した事は、まだ記憶に新しいのですが、その時彼は米国の忠告に従い、報復を控えた事でよく知られています。「『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。』」(ローマ12:19)。
 彼はパレスチナ自治に関しては全く非妥協的でしたが、引退前和平に向けていやいやながらもその一歩を踏み出したようです。1992年に労働党のイツハク・ラビンが首相となり、1993年オスロ合意により、イスラエルは建国以来初めてパレスチナ人の存在を公式に認めました。クリントン大統領を間に挟み、ラビン首相とPLOのアラファト議長が握手した光景は、マスコミにより大々的に報道されました。
 しかし真の和平まではまだまだです。ユネスコによるパレスチナ国家の認定がされても、イスラエルは依然として拒否しています。
 シャミール氏は96歳で亡くなりました。タイム誌ではかつてユダヤ教のラビ(学者)の服装をしていたとありますから、キリスト教でいう天国にいるかどうか微妙です。
 彼が夢見たシオンの地(=エルサレム)の本当の確立は、イエス・キリストが再臨される千年王国で始めて達成されるでしょう。
 「この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対しては、第二の死(*いのちの書に名前の記されなかった者たちの死)は、なんの力も持っていない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストとともに、千年の間王となる」(黙示20:6)。