ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

社会的共通資本とは

 現在の全く混沌としている政治・経済・社会情勢の中で、もう一度「社会的共通資本」の事を考えてみようと、図書館で宇沢弘文著『社会的共通資本』を借りて読みました。この本12年前の出版なのに、今尚新鮮さを一杯感じさせます。

 まず以前のブログでも触れた事のある「社会的共通資本」の意味を、冒頭のはしがきから引用しておきます。
 「社会的共通資本は、一つの国ないし特定の地域に住むすべての人々が、ゆたかな経済生活を営み、すぐれた文化を展開し、人間的に魅力ある社会を持続的、安定的に維持することを可能にするような社会的装置を意味する。社会的共通資本は自然環境、社会的インフラストラクチャー、制度資本の三つの大きな範疇に分けて考えることができる。大気、森林、河川、水、土壌などの自然環境、道路、交通機関上下水道、電力・ガスなどの社会的インフラストラクチャー。そして教育、医療、司法、金融制度などの精度資本が社会的共通資本の重要な構成要素である。都市や農村も、さまざまな社会的共通資本からつくられているということもできる」。これで宇沢氏が何を言いたいのかよく分かります。
 その第二章で「農業と農村」が取り上げられています。農業の歴史は人類と共に古く、人類を特徴づけるものとして農業の営みがあると氏は言っています。罪を犯してエデンの園を追われたアダムとエバの子カインは、「土を耕す者となった」とある通りです。しかし現代日本の農業は、工業などと比べ現実には到底うまく作用していません。その原因を氏は1961年に成立した「農業基本法」から解きほぐしています。これは非常に大切で、目的は「その生産性を高め、利潤製を求めて、工業部門と競争しうる条件を形成しようとするもの」でした。しかしその失敗は明らかで、工業との格差が広がり続けた事は、私たちも経験的に知っています。ですから氏は農業の再生を求めて、幾つかの提言も行なっています。これからの日本にとって重要ですが、「やんちゃくれ農業」のエメラルドさんのような元気な人々が日本に溢れるようでないと、ユートピアのような気がしてなりません。
 第三章の「都市」では、別の著作「自動車の社会的費用」を再度取り上げ、望ましい都市の形を追求しています。都市設計においてル・コルビュジエが批判され、ジェーン・ジェイコブズが積極的に評価されています。なるほどと思わされます。
 第四章は「学校教育を考える」です。氏は特に米国の市場原理を採択している現在の大学の運営を厳しく批判し、利潤追求の場ではなく、あくまで学問研究の場、学生の教育の場であるべき事を主張しています。その自由独立こそ重要な「社会的共通資本」たりえるのです。しかし現状は危機的です。
 第五章では「医療」が取り上げられています。現在の医療制度の下では、「医療的最適性と経営的最適性」が乖離していると氏は指摘しています。米国では、医療サービスは完全に市場原理に委ねていますが、その惨状は目を覆うばかりであり、TPPを介して日本にも導入される危険性があります。この章を読めば、社会的共通資本としての医療が、私たち庶民にとっていかに身近な問題であるか分かります。もっと展開して欲しかったです。
 第六章は「金融制度」です。そこでは日米の金融危機が分析され、その社会的共通資本としての金融制度の管理のあり方が問われています。日本の大手金融機関が護送船団方式で、国民の多くが塗炭の苦しみを受け、大銀行保護下で行なわれて来た事(地上げなど)による国民的損失は計り知れないものがあると、氏は憤慨しています。この問題の是正も極めて困難である事を氏は慨嘆しています。
 第七章は「地球環境」です。森林伐採温室効果ガス、白人によるあくなき途上国資源の略奪、その文化の破壊などが論じられています。特に地球温暖化に触れていますが、それは12年経過した現在でも深刻な問題となっています。それに今度の東日本大震災における原発事故汚染も含まれて来るでしょう。福島原発は空も海も汚染し続け、後代に深刻な影響を与えようとしています。瓦礫の米国到着はその除去の費用や責任が日本に問われています。
 これらを考えて行きますと、やはり人間創造時のエデンの園こそ、理想的な社会的共通資本が整った場であったとつくづく思います。堕落で失われましたが、聖書の預言では再びそれが復興される時が必ずやって来ます。まず千年王国で義が地を治め、新しい天と新しい地で義が住むようになります。
 「しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます」(ペテロ第二3:13)。