ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

下総国分寺

 2012年6月25日、天気はあまりよくありませんでしたが、松戸の西隣の金町駅から京成金町線で二つ目の高砂へ、そして京成本線に乗り換えて、江戸川を越えた一つ目の国府台駅から歩いて、下総国分寺と国分尼寺の跡を見学して来ました。駅から北上し、かつて発掘した事のある須和田貝塚遺蹟のそばを通り、30分くらいかけて到着しました。

 山川日本史によりますと、「仏教をあつく信仰した聖武天皇は、仏教の持つ鎮護国家の思想によって国家の安定をはかろうとし、741(天平13)年に国分寺建立の詔を出して、諸国に国分寺国分尼寺をつくらせることにした」とあります。

 左の図にあるこの国分寺の仁王門には、左右に仁王尊(金剛力士像)が立っています。

 この国分寺は造られた後、何度か火災で焼失・再建されました。現在のこの門は昭和53年に造られたとあります。奥の本堂は昭和17年だそうです。
 それとペアをなす国分尼寺は、ここからさらに少し歩いた所にあります。しかしそこには建物は存在せず、石の碑が残っているだけです。

 その復元図を記した説明の看板がありました。

 国分寺建立の「『表向き」の理由としては;壬申の乱から年月を重ねとりあえず天皇中心の国家体制も整ったものの、飢饉、病、外交不安(新羅との関係悪化)に内乱(藤原広嗣の乱)など、不安の種のつきない時代で、救いを仏教に求めようと、寺院の建立を思い立ったもの。奈良の東大寺と大仏などもその一環』」(http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Sumire/8209/mania2.htm#2.)とありました。
 様々な不安を抱えた人々が、その心の拠り所として仏教に向かい、救いを得ようとした時代背景があったわけです。
 では聖書ではどうでしょうか?ローマ帝国支配化の属領として、捕囚から帰還したユダヤ人たちは、破壊された神殿を建て直し、そこを拠点にで礼拝をし、心の慰めを得ていましたが、救い主イエス・キリストが来られるまでに、はなはだ世俗的なものとなっていました。それでキリストは宮きよめを行われたのです。 一方この神殿から遠く離れたガリラヤ地方では、彼らは「会堂」を造り、そこで聖書を朗読、祈り、学者らからメッセージを得ていました。それは幾つも造られ、捕囚から戻らなかったユダヤ人たちは、留まった国々でも、心の救いの拠り所として会堂を建て、そこに集まっていました。キリストもイスラエル国内では、そうした会堂を拠点に人々に救いの福音を説教しておられたのです。
 「イエスガリラヤ全土を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいを直された」(マタイ4:23)。
 この会堂と国分寺・尼寺の役割が重なって見えました。大きな違いはそこに「像」が安置されているかいないかでしょう。