ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

石原吉郎(よしろう)の第二の悲劇

 2012年8月18日さとすけさん(http://d.hatena.ne.jp/satosuke-428125/)が私たちに石原吉郎氏の事を初めて紹介して下さいました。その後8月29日にmatsuiismさん(http://d.hatena.ne.jp/matsuiism/20120829)も、やはり彼の事を紹介して下さいました。その2つのブログを踏まえ、私はキリスト者として、『望郷と海』から石原氏の第二の悲劇(第一はシベリア抑留)を考えてみました。

 石原氏は1915年生まれ、1938年東京外国語学校を卒業し、翌年カール・バルトを教えている牧師の居た東京信濃町教会に在籍し、本格的に神学を学ぼうとしていた矢先、赤紙にて応召し、ハルピンへ行きました。そして1945年突然のソ連対日宣戦布告を受け逮捕され、シベリア抑留となり、1946年にはカザフの強制収容所に入れられました。1949年25年の重労働を課され、1953年やっと特赦で日本に帰って来ました。
 そのように石原氏はソ連の収容所における過酷な労働経験の数々を、上記の本で記しています。
 それは実際そこで経験した人でなければ書けない重い内容でした。この本の後半では、日本に戻っているのに絶望的な気運のうちに日々を過ごして来た事が書かれています。特にかつて通う予定だった日本基督教団信濃町教会には戻る事が出来ましたが、石原氏のその後の心の動揺を著書の後半から眺めると、およそ信仰を得て平安に満たされた人の心情とは異なります。
 まず応召前信濃町教会にいたヘッセルというドイツ人から、カール・バルトの代表作ロマ書を読むよう勧められました。これが彼の信仰にとって決定的な巡り合いとなったのです。
 そのバルトについては、matsuiismさんが詳しく紹介しておられます。
 私はそれ以外のバルトを考えています。と言っても、読書家の佐藤優さんが『教会教義学』について、「議論があちこち横道にそれて、全体像を理解することが難しい神学書である」と述べているように、結構難しいのです。手元の神学辞典でもうまく纏まっていないようです。結局読むのを止めました。聖書に次のようにあるからです
 「あのむなしい、だましごとの哲学によってだれのとりこにもならぬよう、注意しなさい。それは人の言い伝えによるもの、この世の幼稚な教えによるものであって、キリストによるものではありません』(コロサイ2:8)。
 バルトの神学は新正統主義神学と呼ばれていますが、極めて哲学的で、およそ私たちが教会で聞く説教とはかけ離れています。上記コロサイ書はバルトについて当てはまります。
 ウイキぺディアを参照しますと、「誤りだらけの人間のことばに過ぎない聖書が、神との出会いの契機において、神のことばと見なされるときがあるとし、聖書の客観的な権威を認めない」という事が言われています。また「聖書そのものの霊感を認めず、聖書は神のあかしである」とされています。
 私たちは聖書を神の霊感を受けたみことばで、キリストの弟子たちが誤りのないよう、聖霊の御力で書き記したものと信じています。
 「なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです」(ペテロ第二1:21)。
 しかし代表的なロマ書の注解では、「神の超越性、人間の罪性、神の恵みのみによる、キリストにあっての救い」を説いているのでしょう。これは正しいです。
 これだけ一瞥してみただけでも、教会で牧師がバルトを語ったら、聞く者たちを混乱させます。
 キリストはユダヤ人の会堂を拠点に「会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え…」と、旧約聖書だけを朗読し、説き起こされたのです。その弟子たちも同様です。今日の福音教会も同じです。
 「そしてただちに、諸会堂で、イエスは神の子であると宣べ伝え始めた」(使徒9:20)。
 そのように説教壇からはイエス・キリストのみことばを真っ直ぐ宣べ伝える事が大切で、そこに神学だ哲学だといろいろ入ると、大切な救いの問題が解決しません。
 石原吉郎氏もおそらくそうした説教に翻弄されたと思います。
 「キリストが復活しようとしまいと、実は大した感動ではない…」「聖書が荒唐無稽であるのはごく当たりまえのこと…」「ヨブのあのたくましい問いは、所詮私には神話だった…」「僕はただやけくそで聖書を読む」「僕は…ただ聖書を避けつづけている…」。
 結局「倦怠、疲労、そして無関心、無感動―これが、生きる根拠というものを失った僕自身の危機的な状況である」。
 以上から私は石原氏のシベリアの過酷な抑留経験を語る機会はあるでしょうが、帰国後は間違った教会に行き、シベリアで味わい、生涯抱いていた絶望感を、キリストによって解決して頂けなかった悲劇の人と見ます。
 勿論それは石原氏を貶めるものではありません。紹介して下さった上記のお二人に心から感謝致します。