ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

中川大地氏のスカイツリー論

 2012年8月21日の朝日新聞に、「都市を森に 欲望と共存」(副題として「スカイツリーに見る文明の芽生え」という題の記事を、文筆家・編集者という肩書の中川大地という人が書いていました。
 私はこの人の事を全然知りませんが、ネットの情報では武蔵野美術大学でグラフィック・アートを学ばれたようです。著書に『東京スカイツリー論』などがあります。ですからスカイツリーについては、結構詳しい人なのでしょう。
 しかしこの朝日の記事を見ていて、かなり違和感を覚えました。

 まず題の「都市を森に」というくだりですが、浅草から隅田川を越えてすぐ近くにそびえたつこのタワーのどこにそんな森が存在するのかと考えると、何もありません。およそ日比谷公園とか代々木公園のような豊かな森が広がっているわけではありません。
 墨田区のホームページを見ても、押上周辺の都市計画概要でそんな森が突然出現するわけでもなさそうです。
 そこで中川氏の論を追ってゆくと、かぎはスカイツリーの造形や建築技術にあるのだそうです。それによりますと、スカイツリーには五重塔を参考にした制御構造があり、高木が風にしなる様相が象徴的に示され、雨水を循環利用する地域冷暖房システムが施されて、あたかも樹木の機能を人工的に再現するような環境技術が導入され、人工の大樹の要素が見受けられるという事なのだそうです。
 スカイツリーが世界一高い塔という事で、開業後の来場者の数は新宿とか渋谷といった隙のない人々の大波を想像しましたが、実際出かけた友人の話を聞いても、それほどひどい混み方ではなさそうです。その周辺には都内最大級の312店舗のテナント数を誇る付帯商業施設が、敷地内に埋め込まれています。
 消費社会の富裕な人々が、それぞれそこで欲望を満たす事が出来ます。しかしそれはあくまで一過的なものに過ぎません。喉元過ぎればそれは単なるそこへ出かけたという記憶のみになるでしょうし、それが私たちに希望を与えてくれるようなものでもありません。物質は物質に過ぎないのです。しかも風向きによっては、その高い塔にまで福島原発放射能が飛んで来て付着するはずです。
 しかし中川氏は「人類が発祥した熱帯雨林のような豊饒な物質・情報環境の回復を目標とし、先端技術と市場のダイナミズムを逆用しながら都市を<森>化してゆく道程にも成りえる」と示唆しています。しかし文章の前半ではアフリカの人類発祥の地と想定されている場所が想像されますが、そこでの生活がそんなに豊饒だったかどうか疑問です。後半における都市の<森>化などといった表現を見ると、もはや現実を越えた抽象的な世界に入り込んだ気分になります。
 そして最後に中川氏は、「欧米以上に普遍的な文明を自前で築く、より誇らしい未来への橋頭保」だなどと評価しています。
 しかしそれこそ「砂漠の一神教から発した西洋近代文明への追従ではなく」と言っている事と反します。それがキリスト教を指すのか、イスラム教を指すのか判然としませんが、もし前者であるなら、この高い塔を自前で築く行為は、まさに聖書に書かれている事への追従です。それは何か?バベルの塔です。
 ノアの洪水後まだ全地が一つの言葉であった頃、人々は神を差し置いて、自力で高い塔を建て、自らの力を誇ろうとしました。しかしそれは大いなる罪であり、神は建設中の人々の言葉を乱された為、結束しての塔建造は頓挫し、人々は各地に散らされました。
 「さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。こうして『主』は人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。『主』が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、『主』が人々をそこから地の全面に散らしたからである」(創世11:7−9)。
 私はスカイツリー見学に行った人を別に否定しているわけではありません。それはそれで良い思い出になっただろうと推測しています。
*この公開の後で下記コメントにあるように、中川氏から直接ご批評を頂きました。とりあえず、ご出身が武蔵野美大でなく、早稲田大学大学院博士課程修了、広く都市論など手がけられておられる方である事を、お詫びと共に訂正致します。