ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

女神坐像

 2012年10月3日の朝日夕刊に「女神坐像」−なぜ口元を隠すのかという見出しで、記者がその謎を追っていました。
 この女神坐像はキリスト教からすれば「偶像」という事になります。
 「木で細工する者は、測りなわで測り、朱で輪郭をとり、かんなで削り、コンパスで線を引き、人の形に造り、人間の美しい姿に仕上げて、神殿に安置する」(イザヤ44:13)。
 しかし鑑賞するのは全く自由だと考えますので、記事からいろいろ楽しむ事が出来ました。

 この女神(じょしん)坐像について解説がされていました。造形に優れた、腕の立つ人が作ったようです。方法は1本の木を割り、中をくり抜いて再び合わせる技法である可能性が高いとの事です。
 滋賀県大津市の建部大社のホームページに詳しく掲載されています。国の重用文化財になっているとの事です。
 この本尊は日本武尊(やまとたけるのみこと)の御妃とされているそうです。平安時代に作られたそうですが、建部神社側の説明では、「頭頂から長い髪を左右に分け垂らし、額が広く眉の稜線は綺麗に弧を描いています。大きめの目は半眼としておられ、鼻は小さく上品。平安女官の印象を与えます。何よりもその姿で最も特徴的なのが、和装で大きく右袖を表し、口元を隠すところでしょう。我々には容易に姿を見せないという本来の神の在り方を暗示し、おしとやかな女性らしさが本像の最大の魅力となっています」とありました。
 朝日記者は「神の姿は見えないものだが、仏像の影響を受け、人格化したのが神像」と言っています。
 一方この神だから容易に人前に姿を現さない為に、「口元を隠す」と解釈された像について、展示会場となる三井記念美術館側の解釈では、逆に袖を下して顔全体を見せようとしているという事だそうです。意見が割れました。
 私の印象では、やはり何らかの理由で「口元を隠す」意図があったような感じです。
 聖書でも口に手をあてるという動作があります。有名なヨブがそうでした。
 「非難する者が全能者と争おうとするのか。神を責める者は、それを言いたててみよ。ヨブは【主】に答えて言った。ああ、私はつまらない者です。あなたに何と口答えできましょう。私はただ手を口に当てるばかりです。一度、私は語りましたが、もう口答えしません。二度と、私はくり返しません」(ヨブ40:2−5)。
 手を口に当てる、これは沈黙するという事です。神の御前に自分の高慢の罪の言い訳が出来ないので、黙る事です。
 しかし私たちは弱い者で、試練があると神に不平を鳴らし、人々に怒りをぶつけたりします。
 ヤコブも口(舌)の制御がいかに難しいか、そこから発する言葉がいかに神と人に害毒を及ぼすかという事について警告を与えています。
 「しかし、舌を制御することは、だれにもできません。それは少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちています。私たちは、舌をもって、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌をもって、神にかたどって造られた人をのろいます」(ヤコブ3:8,9)。
 女神坐像を眺めて以上のような事を考えてみました。