ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

京大原子炉研究所の故瀬尾健さん

 私は大阪府泉南郡熊取町(JR阪和線熊取から南東)にある 京大原子炉研究所で研究している(いた)6人の研究者たち(今中哲二氏、小出裕章氏、海老澤徹氏、小林圭二氏 川野真治氏 瀬尾健氏)のうち、53歳の若さでがんにて亡くなった瀬尾健氏の代表的な著作である『原発事故…その時、あなたは!』を読みました。

 まず瀬尾氏ですが、ネットの情報では1940年生まれ、京都大学工学部原子核工学科を卒業、大学院博士課程を経て、1966年に原子炉研究所の助手になりました。チェルノブイリの事故調査も行い、それから間もなく亡くなりました。助手(現在の助教)のままで、昇進しなかったのは、小出裕章氏と同じです。
 [PDF]ファイル 『瀬尾さんの思い出 - 京都大学原子炉実験所』(www.rri.kyoto-u.ac.jp/NSRG/sonota/seo-memoriam.pdf)の29ページを見ますと、瀬尾氏はキリスト教徒ではなかったけれど、自宅での葬儀ではおそらく暗記していたであろう「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです」(マタイ7:13)の聖句が、参列した約150人の方々に配られたとの事です。故高木仁三郎氏も死の床で、聖書を愛読していたと思われます。
 『原発事故…その時、あなたは!』は、瀬尾さんががんにかかった後、渾身の力を振り絞って書いた原稿を、小出氏が纏めてその死後出版した遺稿です。
 さらに176ページを見ますと、1969年2月の「原子炉研究所職員組合サークル誌」には、「東大闘争と大学の自治」という題の文章が寄稿されていました。
 そこには「大学の自治など既になかった…大学は…様々な害悪を世に流し、国民の福祉に背を向けた行動をとりつづけてきたのである、東大は常にその先頭に立った…戦後、新たに復活した独占資本の中枢要因としての『東大生』を送り出し…」とありました。この東大生たちこそ、今の「原子力ムラ」を構成している人物たちです。瀬尾氏は東大全共闘と連帯しながら、職員組合の一員として戦って来た人だと思います。
 私たち全共闘を経験している者の相当数が「転向」しましたが、瀬尾氏は違いました。本書の終わりで奥さまがこう回顧しています。「科学に携わる者の一人として、原子力を真正面に直視し、自分が抱いた疑問を前に、自分がどうあるべきか、何をなすべきか模索し続けました」。全く純真、真摯な人であったようです。小出氏もそう回顧しています。
 それでこの本ですが、冒頭に瀬尾氏が全国各地の主要な原発の主として最大出力を持つ原子炉17基を対象に、沖電気の開発したコンピューターOKITAC5090を用いて、原子力事故プログラムを駆使して図表化しています。

 見開きのページに1,2,3の番号をふり、1急性障害による死者の数、2晩発性の障害、つまりがん死者の数、3長期避難をするべき領域を図化しています。特に図2では風向きを15度ずつ変えて、原子炉中心からの距離の大きさでがん死者数を表しています。
 ここには福島原発で最大規模の6号機を対象にシミュレーションが行われており、2の晩発性がんで死亡する人々の数は、南西方向で最も多く関東地方で発生します(350万人近く)。そして長期避難をするべき領域は、厳しい基準を採ると、北は秋田、岩手、南は神奈川と静岡の境、山梨、長野の半分以上が入っています。本州の半分以上になります。
 本書の後半では話題は多岐にわたりますが、スリーマイル、チェルノブイリその他の事故からの教訓が特に注意を引きます。1事故は思いがけないことから起こり、予想外の経過をたどる。2フェイルセーフ(どこか一部故障しても安全)、フールプルーフ(出鱈目な操作があっても安全)はあり得ない。3事故の際の現場担当者は、信じられないほど楽観的である。4事故の通報は遅れる。5関係者はあらゆる手を尽くして事故を秘密にする。6事故の影響は過小評価される。7経済性のためには、少々の安全は犠牲にされる。8被害者は、因果関係がはっきりしないのをいいことに、切り捨てられる。
 このほとんどが福島原発で再現されてしまいました。
 あと「放射能から身を守るには」の章では、実に細かい注意点が書かれており、これからも被爆するであろう人々には、がん死を遂げない為にも必須の項目が挙げられています。
 瀬尾氏のようなまだこれからの人が早死にしてしまう、まことに残念としか言いようがありません。
 「私はこのむなしい人生において、すべての事を見てきた。正しい人が正しいのに滅び、悪者が悪いのに長生きすることがある」(伝道7:15)。