ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

流山の新選組本陣跡

 「ペリシテ人はサウルとその息子たちに追い迫って、サウルの息子ヨナタン、アビナダブ、マルキ・シュアを打ち殺した。攻撃はサウルに集中し、射手たちが彼をねらい撃ちにしたので、彼は射手たちのためにひどい傷を負った」(サムエル第一31:2,3)。
 イスラエルの初代の王サウルは、敵ペリシテ人だけでなく、次の王となるダビデを執拗に追跡しました。しかしダビデは逃げ、サウルと、ダビデに友情を誓っていたその子ヨナタンも、父のあとを追ってこの戦いで死にました。旧リーダーサウルとその子、及び新リーダーとなるダビデとの戦いは、長年の敵ペリシテ人によるサウルらの攻撃で終止符が打たれました。
 2013年2月28日は良い天気に恵まれ、自転車で江戸川の土手のサイクリングコースを北上し、千葉県と境を接する埼玉県流山市に入り、少し乗って近藤勇新選組の本陣があったところを見て来ました。土手はあいにく整備の為にダンプが行き交い、立ち入り禁止で、江戸川の2つの渡しの標柱を見る事は出来ませんでした。左画像でユンボの見えるあたりが丹後の渡し、そのずっと先に矢河原の渡しがあります。


 良く知られているように、徳川慶喜を擁する旧幕府は、1868年鳥羽伏見の戦いで官軍に敗れ、旧幕府側にいた新撰組も江戸に撤退しました。そして再起をかけてこの流山まで移動したのでした。
 ネットの情報では、近藤勇土方歳三新選組はこの本陣の南にある丹後の渡しから、流山に入りました。そしてほんの少し北上した所に本陣を構えました。当時の流山は水陸交通の要衝であり、醸造業が盛んでした(この本陣のすぐ南にキッコーマンの流山工場があります)。総数200名以上の隊員がここに駐留していたと言われています。この時近藤は大久保大和という名前に変えていました。

 官軍はここに迫り、丹後の渡しの少し北にあった矢河原の渡しから流山に入り、完全に流山を包囲したと言われています。新撰組は準備不足の状態で、近藤は大久保の名前で官軍に出頭しました。しかしその正体がばれてこの渡しから板橋の宿に連行され処刑されました。土方歳三らは流山を脱出したものの、函館での戦いに敗れ、彼はそこで戦死しました。

 ですからこの流山本陣は、近藤と土方が離別する事になった最後の場所なのです。あの幕末の頃の様々な動きを学ぶと、今日の困難な状況も浮かび上がって来ます。安倍内閣は古い皮袋に新しい事を盛り込もうとして気負っていますが、所詮古い手法に過ぎません。私たちは今新しい皮袋を作る必要があります。民主党は新しい皮袋に古い思想を盛り込んで惨敗しました。