ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

遺跡の発掘その2

 「彼がソドムとゴモラのほう、それに低地の全地方を見おろすと、見よ、まるでかまどの煙のようにその地の煙が立ち上っていた。
(創世19:28)。
 
 2013年3月5日始まった遺跡の事を紹介させて頂きました。その時点で2戸重なった住居についてまだ掘っていなかったので、その後の事も含め、22日に全て終了し埋め戻されたので、若干補足してみたいと思います。
 まずこの2戸の住まい、掘る前は東側のほうが新しいと想定し、十文字に小幅な層を残し、そこから掘り下げました。

 すると今度の発掘では一番の収穫であった帯金具が見つかりました。左写真の手前ビニールがかぶっている所です。やたら撮影出来ないので、忙しい合間をぬって1枚パチリ。写真右下。青銅制品。

 奈良・平安時代は身分によって服装が決められており、役人は位によって様々な材質の金具をつけた帯を身につけていました。その帯金具が出た事は、この住居に住んでいた人が庶民とは異なる事を示しているものと思われます。

 実はこの遺跡の西側直線距離でおよそ2キロの所に、有名な下総国分寺・国分尼寺址が存在し、この住まいの推定役人はそこまで通っていたのではないかと思われます。
 発掘に間違いはつきものです。私たちはこの東側の住居址を新しいと考えましたが、なかなか決め手がなく、もし西側のほうが新しいとすれば、必ず前の住居の上に張り床という赤土でてかてかに踏み固められたものがあるだろうと、慎重に掘り進めました。果たして東側より僅かな段差で高い位置にそれらしきものが見つかりました。しかし床として明確な広がりはありませんでした。
 その他この2つの住居址ではかまどが見つかり、東側の古いと断定された住居址のかまどは、場所がかなり東壁のほうに片寄っていました。普通なら北側の壁の真ん中に造ります。
 図面にこの残した層の記録を記し、写真を撮ってから、そこを剥いで全面的に見えるようにしてゆきます。

 左図はその状態での写真です。東側(画面右)の住居址のかまどは確かに東側に偏っていました。当初は真ん中にあったと思われ、北壁にその痕がありました。そのかまどの袖に当る部分は2戸とも良く残っており、床には真っ赤にやけた砂や粘土が見つかっています。但しモノを煮炊きした時出る煙を出す住居址の外に掘られた煙道は、今回見つかりませんでした。
 写真の左隅から真ん中より少し東まで、張り床が見られます。堅く踏み均されていました。その一部が今回掘っている過程で飛ばされてしまいました。ちょっとしたミスです。その真ん中の少し右に西壁と平行して周溝の一部が残っていました。画面左から3分の2のあたりの細い南北の切れ込みが見えるでしょうか?
 その張り床を剥がすと、今度は古い東側の住居址の床の部分に同じような周溝が見つかりました。画面では分かりにくいですが、画面左のかまどの右袖の隣に僅かに痕跡がありました。
 今回本当に最後までどちらが古い住居址なのか、決着がつきませんでした。その為に2つの住居址の真ん中に十字形の土層を残し、そのセクションを観察しながら慎重に掘って行ったのですが、随分推理を重ね論議を重ねました。それでも間違いは生じました。掘る技術も意外と難しいものです。
 ただ発掘はロマンをかきたてますね。しかし学問と言えるかどうか。古代は身分差別があり固定されていて、自由競争はなかったでしょう。翻って今日の発掘者はおよそ思想がありません。新自由主義的な競争原理が働いて、各自が「俺はよく知っているんだ」と吹聴しています。まるでミルトン・フリードマンシカゴ学派を思わせます。東日本大震災以後の災害便乗型教義が大手を振っている中、改めて掘る事の意義、歴史学を勉強する事の意味を考えさせられた2週間でした。