ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

瞑想は人をより憐れみ深いものとするか?

 「世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう」(ヨハネ第一3:17)
 2013年4月1日のサイエンスデイリサイトでは、上記の題で論文が紹介されていました。
米国ノースウエスタン大学のデステノ大学院生とその仲間たちが調べた成果です。

 一般にキリスト教徒は独り静かに聖書を開いて、その内容を吟味しながら、自己の罪とか神とか他者への思いを馳せ、祈りをする事を瞑想する、デボーションすると言っています。この論文では特にそうした人が対象ではありませんが、実験については以下の通りです。他の科学サイトも参照しましたが、その要約に多少不備があって、推測で補いました。
瞑想が人間関係の調和とか思いやりに影響を与える事は、伝統的な宗教などで経験的に分かっていますが、今度の研究はそれを或る程度裏付けました。
 この研究では参加者たちに、2つのタイプの瞑想法(*どういうものか記されていませんでした)を8週間実行してもらいました。そしてその後にテストをしました。さらに全く瞑想に関わらなかった人々が対照群になったようです。
 しつらえた待合室に3つの椅子を置き、2人の役者に座ってもらいます。1つ椅子が残されています。そこへもう1人の役者が松葉づえを突いて、ひどい肉体的苦痛を伴っているように見せかけて入場します。しかし座っている2人の役者は無視して、携帯電話をもてあそんだり、本を開いたままでいます。
 その光景を瞑想に参加した人々に見てもらいました。デステノ氏らが注目したのは、2つの瞑想法をしてもらった人々に、この松葉づえをついている人への憐みの気持ちが湧いて来るのか、2人の役者のように全く無視するのか、また瞑想に加わらなかった人の反応はどうなのかという点でした。
 結果は瞑想に加わらなかった人々のうち、僅か15パーセントほどが助ける行動をしただけでした。しかし異なる2つの瞑想法を8週間実行した人々は、そのいずれの方法にせよ、5割近くが憐みをもって助ける行動に出ました。
 それは瞑想をした人々が進んで苦しんでいる他人を助けるという、善い行いをした事を意味します。普通ならそんなそんな模範など示したくないと思っている人々の面前においてもあえてそうしました。
 この場合社会心理学では「傍観者効果」というものが出て来るそうです。ウイキぺディアによりますと、「ある事件に対して、自分以外に傍観者がいる時に率先して行動を起こさない心理である。傍観者が多いほど、その効果は高い」というのがそうです。非常事態を目撃した人の数が多かったので、個人が行動を起こす確率が下がってしまうのです。
 この傍観者効果という説を出した人々によると、それは3つの考えで生じるそうです。即ち1.多元的無知 - 他者が積極的に行動しないことによって、事態は緊急性を要しないと考える、つまり自分が助けに行かないのは人の目が気になる為であるが、他の人が助けに行かないのはその事態が助けを必要としていないと認識しているからだと考える、2.責任分散 - 他者と同調することで責任や非難が分散されると考える、つまり自分がしなくてもよいだろうと考える、3.評価懸念 - 行動を起こした時、その結果に対して周囲からのネガティブな評価を恐れる、つまり人の目が気になると考えるというものです。
 それが瞑想によって変わり得るという事になりました。従来キリスト教や仏教では瞑想により憐みや愛の気持ちが増加すると言われていましたが、この実験ではそうでない人々も、瞑想が道徳心に関わる損得感情(=打算)を変える手法となリ得た、という事が証明されました。
 原発の場合被災地の人々とは対照的に、東電や役人たちはこの傍観者効果を大いに発揮したと言わざるを得ないでしょう。