ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

アメリカ黒人の歴史の始まり

 「それでエジプトはイスラエル人に過酷な労働を課し、粘土やれんがの激しい労働や、畑のあらゆる労働など、すべて、彼らに課する過酷な労働で、彼らの生活を苦しめた」(出エジプト1:13−14)。
 手持ちの新明解国語辞典による「奴隷」の定義は、「持ち主の私有物として労働に使われ、牛馬同様に売買された人間」です。
 現代「先進」国家で人間を奴隷視している国は顕在的には無いように見えますが、一昔前の米国では激しい差別があり、その源流を辿れば植民地時代の奴隷制度にまで行き着きます。

 本田創造著『アメリカ黒人の歴史』によれば、米国で本格的に黒人奴隷が植民地の労働力として輸入されるようになったのは、1619年と言われています。一隻のオランダ船が20人のアフリカ黒人奴隷を、ヴァージニア州ジェームズタウン(=英国初の植民地の発祥地)に運んだ事が嚆矢となったそうです。私は1620年の「ピルグリム・ファーザーズ」を載せたメイフラワー号が上陸して以後の事だと思っていたので、大いに勉強になりました。ピルグリム・ファーザーズは英国清教徒(=ピューリタン)たちの一団で、自由を求めてこの新大陸にやって来た人々でした。そしてこの清教徒とは、イギリス国教会の改革を唱えたキリスト教プロテスタントの一派でした。
 ところでこの1619年はヴァージニア植民地において、初めて英国型代議制議会制度が導入され、米国民主制度の端緒ともなった記念すべき年でした。
 従って本田氏は代議制議会制度誕生という民主的な制度の始まりと、生身の人間を動産とする黒人奴隷制度の始まりが、、同じ時、同じ場所、同じ人間によってなされた事で、「アメリカ史の皮肉」と述べています。
 1776年は13の植民地代表が独立宣言を発表した事で知られています。「…すべての人は平等に造られ、造化の神によって、一定の譲ることのできない権利をあたえられている…」。これは人間創造にあたり神が意図しておられた事で、全く正しいと考えます。
 しかるにこの英国からの独立宣言の恩恵からすっぽり漏れた人々がいました。それが原住インディアンと黒人でした。それが独立革命の最大の弱点となりました。なぜでしょうか?この宣言は主としてトーマス・ジェファーソンらにより起草されましたが、その時彼はこの奴隷制を激しく非難しました。「国王(=英国王ジョージ3世)は、人間性そのものに対する残忍な戦いを行ない、いまだかつて彼に逆らったことのない僻遠の地の人々(アフリカ黒人)の、生命と自由という最も神聖な権利を侵犯し、かれらを捕えては西半球の奴隷制度の中に連れ込んでしまう…」。
 ところが「南部のプランター(綿花を主体に、煙草・麻など栽培)は、北部の商人(ニューイングランド等)の支持を得て、黒人奴隷貿易禁止の一条項を完全に抹殺してしまった」のです。黒人奴隷制度は温存され、1787年の合衆国憲法においては、「この最も非民主的主義的な奴隷制度を、憲法によって容認する」事態に至ってしまいました。
 勿論この動きに対しては非難の声を上げた人々が少なからずいました。『コモン・センス』という有名な本を書いた(私はまだ読んでいません)トーマス・ペインは、既に1775年奴隷制度の廃止と、解放された黒人への自由、及び土地の供与も主張していたのでした。
 その後南部は綿花王国と言われるほど、19世紀前半から後半にかけて、飛躍的に綿花の栽培が広がり、それと軌を一にして黒人奴隷の数も増加しました。彼らの権利は一切剥奪され、獣の水準まで引き下げられてしまいました。
 産業革命の進んだ北部との乖離は大きく、やがて奴隷制拡大反対論者だったリンカーンが大統領になってから、1861年南北戦争が起りました。そのさなかの1863年、リンカーンは「奴隷解放宣言」を出し、戦いを有利に進めて1865年南軍を打ち負かし、米国は再統一されたのでした。
 しかしそれにもかかわらず、南部諸州は、これを歓迎せず、以後今日に至るまで、黒人に対する根強い偏見が続いています。
 民主主義の代表と呼ばれる米国ですが、その制度は成立初期から矛盾を孕んだまま進んで行き、今日オバマ大統領の下、多くの白人たちから成る共和党は、この代議制議会制度を尊重せず、行き詰まりを見せている状況です。