ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

本田哲郎著『聖書を発見する』

 「そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「なぜ、あなたがたも、自分たちの言い伝えのために神の戒めを犯すのですか」(マタイ15:3)。

 聖書を正しく読むというのは、実は大変な仕事で、旧約のヘブル語、新約のギリシャ語をある程度知っておく事は大切ですが、それ以上に聖書の言葉そのものが互いに関連し合っている事を考えると、これは一生の学びとなります。しかしその生涯の終わりに言えるであろう事は、聖書の知識がまだ全く序の口で、ほとんどが分からない事ばかりという告白かも知れません。

 そうした中、教会の友人から勧められ、図書館で借りて読んだ上記の題の本は、極めて衝撃的でした。著者の本田神父は1942年生まれ、上智大学を卒業してフランシスコ会に入り、ローマ教皇庁立聖書研究所を卒業、大阪釜ヶ崎で2畳一間のアパートに暮らし、そこの労働者たちの声に虚心に耳を傾け、彼らから逆に学びをしつつ、これまでの伝統的なカトリックプロテスタントの聖書解釈に疑義を唱えています。フランシスコ会日本管区の管区長でもあります。
 私たちは神父と言いますと、カトリックの人で何でもローマ教皇庁の意図に従わなければクビになるとか、聖書をあまり理解していないのではないかと考えてしまいますが、この本田神父は全く違いました。聖書原語に通じているのは勿論、その従来の欧米による一つ一つの言葉の解釈まで、徹底した見直しをしています(http://www.asahi.com/kansai/kokoro/kataruhito/OSK200804040072.html)参照。
 まず冒頭の箇所で皆様が胡散臭く感じておられるところを、本田神父は語っています。「今日の世界は、あまりにも格差がひどくなっています。その格差社会をどんどん推し進めている張本人たちのほとんどがクリスチャンでもあります…あの人(=三浦朱門)…がこんなふうに言っている。『出来ないものは出来ないままでけっこう…出来るものをかぎりなく伸ばすことに振り向ける…』」。「元首相(麻生太郎)もカトリック信者だそうです。クリスチャンには、ろくな奴がいないとすら思う」。「ジョージ・W・ブッシュしかりです…聖書を読み、聖書に従って生きようとしているはずの人が、なおかつイラクにおいて何万人もの人を殺戮することができる、その福音理解、聖書理解とはいったい何ですか」。
 私も折々触れていますが、彼らは全くキリストとは関係ない、上から目線の人々ばかりです。だから本田神父は通常「悔い改め」と訳されているギリシャ語メタノイア、ヘブル語ナーハムに徹底的にこだわっていて、後のページの随所にそれが出て来ます。
 私たちはそれを、これまで罪の道を歩み、神に背を向けていた人々が、神に立ち返る、180度方向を変えるというように捉えていました。しかし本田神父は「人の痛み、苦しみ、さびしさ、悔しさ、怒りに、共感・共有できるところに視座・視点を移すことだ」と主張しています。同じようなギリシャ語ストレフォー、ヘブル語シューヴも「戻る、帰る」という意味ですが、やはり「ふわふわと浮き上がっていた自分の視座を、低みにすえられている神の視座に引き戻す」というように捉えています。
 それゆえ自分の努力で「『さあ、へりくだって、貧しい者、小さい者になろう』という、これほど偽善的で思い上がった考えはない。冗談ではありません。教会が日常的にうながすこのような考えこそが、現に貧しく小さくされている仲間たちをどれほど傷つけ、侮辱しているか、気づくべきです。そうではなく、自分の目の前にいるこの人こそ、神さまがつかわした人なのだとみとめ、その人の思いと願いに連帯し、協力することこそ大事なのだ。そうするとき、あなたも目の前の人と同じ神のいのちと働きを共有しているのだ。値打ちとしてはまったく同じなのだ、と」。だから「わたしたちの身近にいる、社会的に弱い立場に立たされているひとりひとりを通して、主ご自身がわたしとかかわろうとしておられる」。
 そうやって考えてみますと、あのアブラハムは一番小さくされた者、れっきとした難民であったし、モーセ言語障害の人、ダビデはただの羊の番人、イエスの十二弟子の大半が漁師、そしてマタイのように蔑まされていた収税人、聖書きってのインテリだったパウロも、当時評価の低いテント造り、キリストの側についたことで、ユダヤ人からひどい迫害を受け、排除された社会的弱者だったと言えます。ですから神はそういう人たちと共にご自分のみわざを行なおうとしておられるのです。
 「現実に貧しい人たちの本音は、もっと豊かになりたい、もう少しましな暮らしがしたいということです。野宿をせずに、せめて畳の上で寝起きができるように、炊き出しに並ばずに、のれんをくぐっていちばん安い定食でもいいから、自分で買って食いたいということです。豊かな人たちが思い描く貧しい者のイメージ、小さい者のイメージと、現実の貧しく小さくされている仲間たちの実情はまったく違う。わたしたちはもういいかげんに、貧しさごっこをするのはやめた方がいい…そんな思い自体がおごり偽善です。そんなことを釜ヶ崎の労働者たちは求めていません」。
 「選択肢をまったく奪われているというときに、自己責任や自助努力の欠如をあげつらわれるなら、当然怒りがわいてくる」。
 だからイエスはそうした偽善者たちの事を本気で怒っておられます。すさまじい怒りです。イエスがそうであったからには、私たちも「小さくされた仲間と連帯していることにおいて怒ることをおそれてはならない」のです。大震災で抑圧・差別され、小さくされてしまった人々の怒りをただ単に共感するのではなく、一緒になって怒り狂うのでなければなりません。
 月1回のペースでしか国会に行けません。しかし帰るべき家があり、切羽詰まっていない自分としては、この本田神父の主張にがーんと打ちのめされ、今後怒りのボルテージをもっと上げねばと堅く決意しました。さらに今の自分の立ち位置を再確認させられました。