ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

私の誕生の場所見学

 「しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました」(へブル11:16)。
 2013年5月3日、10年ぶり(母親が亡くなってから)に故郷である、東京都杉並区松庵の地を見て来ました。ここから近いJR西荻窪駅前の老舗の店「こけし屋」で、中学3年のクラス会を行うので、その下見に行って来た次第です。毎年幹事をやらされています。下左写真は敗戦時から面影の残る西荻銀座。手前左にこけし屋。

 私が生まれたのは1946年、広島・長崎に原爆が落とされてから、約10カ月後の事です。それまで父は横須賀の海軍におり、母は杉並の自宅に防空壕を掘って、灯火管制の下、家を守っていました。敗戦3か月前の5月24〜25日、山の手地区にB29が大挙して襲来、焼夷弾を落とし始め、3月10日の下町攻撃を倍上回る量になったそうです。これを「山の手大空襲」と呼ぶそうですが、母の話ではかろうじて自宅周辺は避けられたそうです。しかしそれまではP52戦闘機がしばしば急降下して銃撃を行ない、母は間一髪の所で助かったと言っていました。家の裏の松林に高射砲陣地があったそうですが、B29は1機だけ撃ち落としたと言っていました。

 戦後67年も経過すると、町並みが変わってしまい、なかなか自宅のあった場所を特定出来ませんでした。しかし何度も歩くうち、遂に戦前から住んでいた人の苗字が書かれた名札が3つは見つかり、特に右写真真ん中にあるレンガの塀に埋め込まれた名札が、自宅の隣の人のものと分かり、その左が昔住んでいた家のあった所と推測出来ました。
 そこからさらに歩いて私が通った小学校を探しましたが、それはすぐ見つかりました。取り壊されていませんでした。

 なつかしかったです。この校庭ではよく遊びました。まだ勉学精神に目覚めていませんでした。

 南のほうへ歩いて行きますと、キリスト教立教女学院米国聖公会系)があって、広い敷地は、坂をなし下り切ったところが井の頭公園から流れ出る神田川です。南斜面という立地条件の良さから、初めてフェンスの近くに露出している縄文土器片を見つけて興奮したものでした。

 帰りも西荻窪へ向かい、別の通りを歩いて行きましたが、自宅のあった所を東西に走るのが五日市街道、それより南にやはり平行して走るのが井之頭通りで、そこに小学校の時縁日などで出かけた松庵稲荷もちゃんと存在していました。
 私は原爆投下の事は知りませんでした。父母に話を聞くだけでした。その後家を父が連帯保証人をしていた会社が潰れ、家を売却する事になり、その時から母は借金で駆け回り、無理をして遂に私が高校浪人中の夏に倒れ、私は志望の大学に行けませんでした。見守りは40年近くで、10年前母が召された後もずっと貧乏生活が続いています。
 でも振り返ってみますと、敗戦からおよそ15年は貧しくても平和で、良く遊び良く勉強する事が出来ました。
 今安倍首相の下、また原爆が飛来し、徴兵制も敷かれる可能性がゼロとは言えない、恐ろしい時代に向かおうとしています。私は生まれ故郷訪問とクラス会の候補地確認をしながら、つらつら平和憲法の事を考えてみました。戦争の悲惨さを父母から聞いておいた事も、大いにプラスになりました。