ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

喪服の色は最初白だった

 「あなたは喪に服している者を装い、喪服を着て、身に油も塗らず、死んだ人のために長い間、喪に服している女のようになって」(サムエル第二14:2)。
 私たちは喪服といいますと、すぐその色を黒と連想してしまいますが、2013年5月20日に載った朝日新聞の「歴史探偵団」というコラムを見つけて読んだところ、何と近代になってから黒が定着したという事を知りました。
 考古学の分野では、古墳時代に埴輪が作られるようになってから、古墳に並べられた埴輪を通して、その時代の衣服がどのようなものであったかを知る手掛かりが得られます。
 古墳時代は前期・中期・後期と分けられていますが、7世紀を後期古墳時代と決めているようです。その終末期7世紀後半〜8世紀にかけて、有名な壁画古墳である高松塚古墳が調査され、壁画の人物の服装が分かりました。ただこの壁画や埴輪からは、当時の喪服が何色だったか、はっきりしません。
 645年大化の改新の詔が発せられ、翌年厚葬と旧俗の廃止を定めた 『薄葬令』が告げられ、古墳時代は幕を閉じる事になりました。この改新では庶民の服装は白のものと規定され、白丁と呼ばれました。左画像中村勘三郎さん葬儀で、奥様は白の服装でした。

 ところで朝日に登場する学習院女子大学教授増田美子氏によると、636年の隋書倭国伝には「死者は棺槨を以って斂め、親賓は屍に就いて歌舞し、妻子兄弟は白布を以って服を製す」とあるので、おそらく白い麻布を使った喪服が用いられたのだろうと推測されています。
 ところが718年に出された養老喪葬令には「凡天皇、本服二等以上の親喪の為には、錫紵を服す。三等以下及び諸臣の喪の為には、帛衣を除く外雑色を通用せよ」という規定がありました。ここに「錫紵」という言葉が出て来ます。これを百科事典で調べますと、「錫紵(しゃくじょ)は浅黒色の細布で作った闕腋(けつてき)の袍(ほう)で,これを常の服のうえに重ねて喪服としたのである」とあります。闕腋の袍とは両わきの袖付けの下を 縫い合わせないで開け広げたままの上着の事だそうです。それにより平安時代黒の喪服が一般的になったようです。
 しかし増田教授は、これは勘違いだと主張しています。なぜなら錫は、本来金属のすずの事で銀白色ですが、中国では目の細かい白の布を意味していたそうです。ですから喪服は本来白であり、百科事典の定義は間違っていた事になります。
 その為かどうかわかりませんが、この黒の喪服は長続きせず、鎌倉〜室町時代になると、また白が復活します。それを増田教授は、「庶民は貴族の<黒>におされながらも、<白>という色を守り続けていたのではないでしょうか。そして、貴族の影響力が薄れた室町時代に、その"白文化"が盛り返したのではないか」と推測しています。以後基本的に喪服は白で定着していたようです。
 ところが明治維新になり西洋文化が入って来ると、再び喪服は黒という考えが浸透しましたが、それが完全に定着するようになったのは、第二次世界大戦以後の事だそうです。意外でした。
 ところで国学院大学の新谷教授によると、「喪服は本来、死者を出して死穢(=しえ)に包まれた遺族が他にうつさないための忌み籠りの衣装でした」とあります。そしてそれが会葬者も模倣して着るようになったそうです。
 聖書の旧約では死に対する穢れと言う儀式律法がありましたが、それは新約に入り廃れました。基本的には教会の葬儀で、服装は全く自由であるべきだと考えます。新約以後の「穢れ」とは専ら「心の穢れ」を指し、黒の服装とは全く無関係だからです。