ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

南川高志著『新・ローマ帝国衰亡史』から考えた事

 「兄弟たちよ。私はあなたがたに知らせましょう。私が宣べ伝えた福音は、人間によるものではありません。私はそれを人間からは受けなかったし、また教えられもしませんでした。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです」(ガラテヤ1:11−12)。
 ローマ帝国の衰亡については、ギボンの『ローマ帝国衰亡史』があまりに有名です(私は読んでいませんが)。

 ところがそれから研究が進むと、いろいろな学説が現れて来ました。私たちが高校の世界史で学んだローマ帝国の衰亡、西ローマ帝国の滅亡(476年)についての認識は、変更が必要になるかも知れません。特に西ローマ帝国ゲルマン人傭兵隊長により皇帝が廃位された事で、476年の滅亡が確定したかなようですが、著者南川京大教授によると、ゲルマン系と呼ばれるゴート族との一騎打ちとなったアドリアノーブルの戦い(378年)で大敗し、帝国の東半の主力軍が壊滅状態になった事から始まり、アラリック率いるゴート族主体の軍隊が410年にローマ市を占拠した頃、つまり5世紀初めに帝国としてのローマは、僅か30年で滅亡したという事だそうです。故に476年というのはあまり問題にならないそうです。
 それはさておき聖書との関連から見てゆきます。ローマはカエサルの独裁の時から領土を広げて暗殺された後、姪の子オクタウィアヌスが権力を握ってから、地中海世界としてのローマ帝国が完成に向かいます。占領された地域はローマの属領となり、ユダヤの地域もそれに繰り入れられました。彼は紀元前27年に「アウグストゥス」の尊称を与えられ、帝政ローマ初代皇帝となりました。新約聖書ルカ伝2:1に登場する「皇帝アウグスト」の事です。イエス・キリストはこのローマ属領のユダヤで伝道を始めましたが、ローマ総督ピラトの手により処刑されました(紀元後30年頃)。その弟子たちは地元エルサレムから迫害を受けて各地に散って行き、ペテロは異邦人への宣教の門戸を正式に開き、その最後の使徒パウロはそれをローマにまで及ぼし、そこで殉教したと言われています。しかし既にこの頃から帝国でキリスト教は普及し始めました。

 パウロは属領となった出身地でローマ人としての市民権も得ています。使徒行伝の後半ではこのパウロの活躍が目覚ましく、ペテロは登場しません。ペテロは自ら望んで逆さ十字架で処刑されたと言われています。
 南川教授はこの繁栄を極めたローマ帝国の衰退を、コンスタンチヌス大帝(280年頃〜337年)の時に置いています。彼はキリスト教を帝国内部の全ての領域に広げた事で有名です。しかし325年「キリスト教の宗教論争に介入し」ニカイア公会議を開き、「父なる神と子なるキリストは同質」とするアタナシウス派を支持し、「父なる神に子なるキリストは従属する」というアリウス派を退けました。そのあたりからこの二派の教義を巡る分裂が生じ、霊的面からも帝国の衰退の一歩となったようです。その子コンスタンティウス二世は「キリスト教徒皇帝として厳格に対応しようとした」為、未信徒も含めたローマ社会は混乱し、いっそう帝国の弱体化に手を貸した形になります。
 権力の手で無理矢理人々を改宗させようとする手法は、私からすればむちゃくちゃです。あくまで聖書を基準とした個人的な信仰が主体でなければなりません。

 一方ローマ教皇の起源はとなりますと、キリスト教辞典では上記弟子ペテロが、当時のローマ教会のクレーメンスという人を司教職に任じたという「偽クレーメンス文書」により、教皇レオ一世(440〜441年在位)がその司教の首位権を主張し、初めて「教皇」としての地位を確立した事に始まるようです。
 しかしそんな事は聖書のどこにも書かれていません。特にペテロは初代エルサレム教会の集団的指導者たちのトップではありましたが、教皇位へと結び付く人物ではありませんでした。そこにローマ教皇制度の誤りがありますが、以後世襲となった教皇制度の下、人間に過ぎない者の統治から暗黒の中世、ルターの宗教改革を招いた事は周知の通りです。
 ですからキリスト教を国教としたコンスタンティヌス大帝から、ローマ帝国の衰退が始まったとする南川教授の考え方には、私も賛同します。神より人を高めた皇帝と教皇、ここにキリスト教の悲劇があり、教科書で学んだ皆様が嫌悪感を抱かれるのは当然でしょう。私も再度この事を顧みてみました。
 他にもこの書から学んだ事は多くありますが、もう紙面も尽きたという感じで筆を置きます。