ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

田中正造没後100年

 「信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だとあかししてくださったからです。彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています」(へブル11:4)。
 今年9月4日、田中正造が亡くなってから100年が経過しました。その事を2013年9月2日の東京新聞サイトで知りました。題は「田中正造、百年の問い 足尾鉱毒福島原発」でした。

 私は中学時代第一志望の都立高校を滑り、入った都立高校で日本史を選択できない理不尽を憤り、長い間のトラウマとなっていました。大学4年の時の東大・日大闘争をきっかけに、日本史を真剣に勉強するようになり、その頃出会ったのが宇井純東大助手(当時)の『公害言論』でした。そこで初めて田中正造足尾鉱毒事件という、記録されている公害では最初のものを学びました。後に東大に入ったiireiさんがこの公害講座に出席しておられたのは、ブログ仲間では「周知の事実」です。
 以下山川日本史から再度その概略を書き記しました。
 田中正造足尾鉱毒事件
 幕末には廃鉱同然であった足尾鉱山を、古河市兵衛が買いとったのは1877年であるが、6年後には青銅額が買収時の十数倍になった。しかし、この飛躍的な発展にともなって、下流渡良瀬川流域の農業・漁業に大被害があらわれた…これに対し被害地の村民は、1897年以来、蓑笠・草鞋ばきで大挙して上京し、数回にわたって陳情をこころみたが、1900年には警官隊と衝突して数十名が逮捕された。栃木県選出の衆議院議員田中正造は、議会で政府に鉱山の操業停止をせまった…政府も鉱毒調査会を設けて鉱毒予防を銅山に命じたが、操業は停止させなかった。そこで1901年に田中は議員を辞職し天皇に直訴をこころみたが、果たせなかった。政府は1907年、被害と洪水を緩和するために、渡良瀬川利根川の合流点近い栃木県下の谷中村を廃村として住民を集団移転させ、遊水地にした。しかし田中はこれを不服とする住民とともに谷中村に残り、1913年に亡くなるまでそこに住んで政府に抗議し続けた。
 これを見ただけでも東京新聞がつけた題に含まれる福島原発との類似性が明らかです。

 東京新聞は「国策の犠牲、大企業や政府の不作為、ふるさとの喪失、そして汚染水…。渡良瀬、水俣、そして福島の風景は重なり合って、この国の実像を今に突きつけます」と書いています。
 当時の銅増産が国策であったのは、福島原発が国策だったのと同じです。古河市兵衛経営の足尾銅山は、東電による福島原発経営と同じです。鉱山の政府調査会の不徹底とその存続は、3・11以後の東電を潰さない政府の対応と同じです。ふるさと谷中村の喪失と渡良瀬遊水地(谷中湖)造成は、原発後進行中の福島(特に原発中心地)住民の棄民と、強いられた移住に重なります。鉱毒を垂れ流した渡良瀬川は、原発からの汚染水垂れ流しと同じです。
 田中正造は反原発で徹底して無視されている京大の小出助教槌田敦氏ら、そして安倍政権のウソ偽りに抗う私たち無名の個人の集まりかも知れません。
 そして田中正造が国に抵抗してあれだけの力を発揮した理由は何だったでしょうか?サイトや本を調べて見ましたが、聖書のみことばであったのは間違いないでしょう。
 ネットを見ますと、田中は救い主イエス・キリストを信じてはいなかったけれど、聖書を生涯の生活と戦いの指針としていたような事を書いています。私の見方は違います。田中創造全集の最後の19巻に、1902〜04年の宛名不詳の書簡として、「正造ハ耶蘇教ニ入ラザレドモ耶蘇を信ゼリ。而テ其行為ヲ同フセリ」と、明確な信仰告白があります。1901年の祈りには、「国家の基礎たる数萬町の被害を除き我々の生命を救へよ…無量幾十億千萬に値せる未来の損害を救へよ」等々、今の福島にも適用される11もの課題が載っています。信徒の祈りと行動には救い主が共に居て下さり、「私が呼んだその日に、あなたは私に答え、私のたましいに力を与えて強くされました」(詩138:3)とある主の力が、生涯彼を支えて下さったと信じます。彼の1913年9月4日の居候の家の死の床には、特に拠り所としたマタイ伝の合本があったとの事です。そこが太宰や芥川との大きな違いでした。