ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

独善的な信仰心は争いのもと

 「そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」(ヨハネ8:32)
 2013年8月22日の朝日連載小池龍之介氏の「心を保つお稽古』コラムでは、上記の題で小池氏が掘り下げた内容を伝えています。
 小池氏の事はこれまでもしばしばブログで取り上げた事がありますが、聖書と良く似た事柄に触れています。

 この日は、スッタニパーダ(経集)第796偈(げ)を引用していました。
 ネットからその箇所を拾ってみますと、「世間では、人は諸々の見解のうちで優れているとみなす見解を『最上のもの』であると考えて、それよりも他の見解はすべて『つまらないものである』と説く。それ故にかれは諸々の論争を超えることがない」とありました。小池流の訳ですと、「『私の考えこそ真理だ。他は間違っている』と独善的に主張するせいで、人はいつまでも争いの中に留まり続けることになる」です。
 この随想の冒頭では「仏道とても、『これこそが真理だ。それを分からない人は間違っている』という発想で取り組むなら、狂信的な宗教実践の類へと、案外簡単に堕してしまうのです。ひゃあ、怖い」と言っていました。
 キリスト教でもこの第796偈について、よくよく気をつけないといけないと思いました。
 勿論キリスト教は人間の教えではありません。「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です」(テモテ第二3:16)とある通り、神のことばを聖霊の導きによって弟子たちが書き記したものですが、その人間である弟子たちは、自分の考えこそ真理だなどとは皆目思っていません。なぜなら人間は神の聖なる基準に到達出来ない罪人で、自分のうちに誇るべきものは何一つないからです。
 では聖書こそ真理だと言っても、その真理をちゃんと理解し完璧に伝えられる人がいるかと言えば、誰もいません。
 その意味でキリスト教徒は、信徒以外の人を指して「聖書を分からない、又は信じられないあなたは間違っている」という事も出来ません。「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です」(エペソ2:8)とあるように、信仰もまた神の賜物ですから、自分には信仰があるなどと誇る事も出来ません。
 キリスト教信徒はその意味で、謙虚であり、決して人を非難したりしません。努めて和平を保つよう努力します。
 ところが世の中実際には自分たちだけが正しいと、自分を誇るパリサイ人のような人がゴマンといます。そうした人々は小池さんの言うように「いつまでも争いの中に留まり続けることになる」のです。パウロの書簡などを見ますと、既に彼が建てたコリントの教会の中に争いや分派が生じている事が分かります。「実はあなたがたのことをクロエの家の者から知らされました。兄弟たち(*コリントの教会員たち)。あなたがたの間には争いがあるそうで、あなたがたはめいめいに、『私はパウロにつく』『私はアポロに』『私はケパに』『私はキリストにつく』と言っているということです」(コリント第一1:11,12)。つまり聖なる書自体が救われた教会員たちの間でも分派や争いがある事を認めているのです。
 そしてキリスト教史を見て行けば、そうした罪深い独善的な人々の存在で戦いが起こり分裂が生じた事が分かりります。
 その独善性の最たるものがローマ教皇です。キリスト教辞典の「教皇の無謬性」というコラムをみれば、良く分かります。「教皇教皇座から宣言する時、信仰と道徳に関する教理は無謬性を持つ…その宣言はペテロにおいて教皇に約束された聖霊の特別な賜物によってなされたものであり、他のいかなる人の同意も承認も必要とせず、いかなる理由によっても変更不可能…」。
 勿論カトリックの神父の中にも本田哲郎神父のように立派な人も多くいます。ですから私たちの心に古い罪の性質が残っている限り、堕落は可能で、十分自戒してかからなければ、小池さんの危惧された事態はいつでも起こり得るのです。