ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

南相馬市の友人から現状の話を聞く

 「私は死人のように、人の心から忘れられ、こわれた器のようになりました」(詩31:12)
 2013年11月30日、私が生まれ11年ほど過ごした東京杉並区西荻窪にある老舗「こけし屋」で、中学3年の時のクラス有志会を行いました。

 こけし屋は1949年創業で今年64年になる、この地域の人々に親しまれている店です。このこけし屋には、ちょうど私の中学同期の人が責任者の一人として居ます。3階以上の貸切の部屋は静かで、集まった友人たちがじっくり他人の話に耳を傾けられるよい場所となっています。
 私はこのクラスの幹事を2005年に立ち上げ、毎年行っています。67歳になりましたが、この時ばかりは童心に戻って和気合いあいといった気分でやっています。
 ところがそのクラスを憂鬱にさせたのが、2011年3月の東日本大震災、特に福島の原発事故でした。2人の旧友が被害を受けたからです。一人は南相馬市鹿島区に住んでいて、西側の高台だった為、津波被害を免れました。もう一人はいわき市のお医者さんのところへ嫁いだ女性です。こちらは原発中心から遠く、放射線量はそれほどでもないのですが、いろいろ事情があって東京の娘さんのところへ往復していました。

 南相馬の友人が深刻な被害を受けていて、このクラス会では皆が支援し励ましています。南相馬放射能汚染状況により当初3分割され、既に役場を退職していた友人は、事故まで合併の為奔走していた関係もあり、住民同士のいがみ合いの調整役も買っていたのですが、あまりにひどく一時鬱状態になったと言っていました。
 今は私たちと年1回でも交わりを持つ事が出来る為、多少とも笑顔が戻り、修羅場と化している現地からしばし切り離されて元気になって帰ってもらっています。
 会の開始時にその友人から真っ先に現状を聴き、マスコミで報道されないような事も多々伺う事が出来、貴重な機会となっています。彼の家の内外は放射性同位体セシウム137の線量は、毎時0.23マイクロシーベルトどころではなく、0.5〜1ミリシーベルトに及んでいます。しかし私が衝撃だったのは、それだけの線量があるのに、もっと深刻な原発中心地からの避難の人々が借家の全てを占めているので、私が将来拠点をそこに移すべきかどうか祈っていただけに、事実上不可能になってしまった事です。しかも海岸側は復旧どころではなく、常磐線もいまだ原発中心地では不通、その為車でしか行けません。さらに除染と称して形ばかりの事が行われていますが、剥いだ土の持って行く場が無くて山積みの状態のままです。それでもこの友人夫妻はここに留まり、息子さんだけ仙台に疎開しました。
 いわきの女性の友人は、疲労困憊から遂にいわきを諦め、医者のご主人と東京の世田谷区に引っ越したばかりです。福島に比べ、居住空間はぐっと狭くなってしまいました。でも杉並に近い世田谷に戻って来たという事では、相当元気になりました。
 そのように私たちのクラスは2人の被災者を出しました。しかし会が継続すれば、新たな情報も得られ、福島をずっと覚えておく事が出来ます。これからもずっと続けるつもりでいます。絶対忘れないぞ!